石山本願寺との関係を分断するため、雑賀衆の征伐に出かけた織田信長。
雑賀孫一(鈴木重秀)を討て!信長と雑賀衆の全面対決~信長公記143・145話
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今回は、その間に京都で起きていた話です。
都では、織田軍の戦勝祈願などが行われ、さらには“内裏の工事”が進められていました。
築地塀は町衆で分担してはどうか?
担当は、京都の政務を任されていた信長の家臣・村井貞勝。
彼は京の人々にこう話を持ちかけました。
「内裏の御殿修繕が済んだ。築地(ついじ)は町衆の分担で修理してはどうか?」
町衆もこれに納得し、早速準備に取り掛かります。
築地は「築地塀(ついじべい)」ともいいますね。こちらの方がイメージしやすいでしょうか。
木材で枠を組み、その間に土を入れて固めて作る外壁のことです。瓦や板の屋根がついていることもあります。
現代の京都御所や各地の寺院・城にも、多少の差異はあれど設けられていますので、見たことがある方も多いのではないでしょうか。
警護は貞勝が担当し、3月12日に工事が開始。
町ごとに担当区域を決めて作業をすることになりました。
着飾った稚児や若衆が舞い踊り
面白いのはここからです。
各区域の作業現場前に舞台を誂え、そこで着飾った稚児や若衆が舞い踊り、笛や太鼓で囃し立てたのだとか。
信長が永禄十二年(1569年)の将軍御所造営(58話)でも賑やかなやり方を始めてからというもの、工事とお囃子の組み合わせはすっかり定番化していたようですね。
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ちょうど桜の時期でもあり、現代でも花の名所として知られる嵯峨や千本も満開を迎えていたとか。
京の人々も貴賤問わず花見に行ったり桜の枝を差したりして、春らしい光景が広がっていたそうです。
また、この工事現場の賑わいを、正親町天皇や后妃たち、役人たちも楽しんで見ていたといいます。
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詩歌の会も催されたそうですから、工事というよりはちょっとしたイベント扱いですね。
残念ながら、どんな歌が詠まれたのかまでは『信長公記』に記載がありません。牛一の耳には入らなかったのでしょうか。
なんといいますか、京の人々の粘り強さを感じる光景……という感じですね。
これはこれで、決して安穏とはいえない世の中に生きる人々の知恵なのでしょうか。
なにはともあれ、工事は順調に進み、無事に築地の修理は完成しました。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)