明智光秀を【山崎の戦い】で破って信長のリベンジを完遂し、清州会議では三法師を推挙した羽柴秀吉(豊臣秀吉)。
見事に目論見は果たしたが、一方で柴田勝家のもとには織田家の精神的支柱とも言える「お市」が嫁ぎ、勝家の本拠地・北陸と畿内を結ぶ長浜城も獲得するなど、依然として天下人の後継者争いはどう転ぶか不明であった。
そんな中、先手を打ったのが、やはり秀吉。
信長の四男にして自らの養子である羽柴秀勝を喪主として、亡き主君・織田信長の葬儀を執り行ったのである。それはあたかも自分が後継者と高らかに宣言していたかのように――。
激動の身内争い。次に動き出したのは……?
蚊帳の外
◆本能寺に没した信長の遺体が見つからなかったのは、明智光秀にとっても不運であり、残された織田家中にとっても大きな問題となりました。
どんなカタチで葬儀を行うのか?
通説では秀吉が、遺体の代わりに木像(香木とも)を焼き、強引に完了させたと言われております。
しかも、その喪主は清州会議で自分がプッシュした三法師(織田家後継ぎ・織田信忠の息子)ではなく、
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自らの養子に迎えていた信長の四男だったのですから、公然と織田家の責任者を宣言したも同然。
他の家臣たち、特に柴田勝家や織田信孝から見れば宣戦布告にも等しかったことでしょう。
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先手必勝
◆調略に定評のあった秀吉が、その能力を最もパワフルに発揮したのって、この頃だと思うのは私だけでしょうか。
古くは織田家が美濃へ攻めこむときも、浅井の家臣を攻略するときも、はたまた毛利攻めの途中で見せた三木城・鳥取城・備中高松城の攻撃も、それぞれ印象深いものですが、明智光秀を倒してからの手腕はまさに神ワザでした。
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近くにいた(いさせられた?)織田信孝さん、たまったもんじゃありません。
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