明治三年(1870年)7月20日は、小松帯刀(清廉)が亡くなった日です。
清廉は「きよかど」と読み、通称の「帯刀」は「たてわき」ですね。こちらでご存じの方も多そうです。
大河ドラマの幕末モノでもお馴染み、薩摩藩きってのフットワークと頭の回転を持つ人物。
それだけに、明治に入ってわずか三年での死去は多くの人に惜しまれました。
激動の時代を、帯刀はどのように駆け抜けていったのでしょうか。
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昼夜を問わず勉学に励んだ小松帯刀
帯刀は、薩摩藩鹿児島城下に屋敷を構える肝付家に生まれました。
これで「肝付=きもつき」と読みます。そのまんまではありますが、初めて見るとびっくりしますよね。
上にお兄さんが何人かいたようなのですが、特に両親は次兄を寵愛しており、寂しい幼少期を過ごしていたとされています。
現在で言えば中学生くらいの歳からは学問に目覚め、漢学者について儒学を学びました。
もしかしたら、学問を身に着ければ両親が自分を見直してくれるかも、と思ったのかもしれません。子供にそんなこと思わせたらアカン(´;ω;`)ブワッ
しかし、あまりにも熱心すぎて昼夜を問わず勉強していたらしく、元々丈夫ではない体質をさらに弱めてしまいました。
20歳にもならないうちから、寝こんだり湯治に行くことも珍しくはなかったようです。しかも、湯治に出かけた先でも土地の人や身分の低い人にいろいろな話を聞きに行っていたとか。
また、歌道や武術にも励んでいたとのことですので、薩摩藩士として恥じないようになろうという気持ちがかなり強かったのではと思われます。
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その心構えは立派ですが、もっと自分を大事にしてほしかったですね……。この時期に彼を諌めたり気遣ってくれる人がいなかったことが、帯刀の最大の不幸かもしれません。
わずか2ヶ月の江戸勤務を経て小松家に婿入り
帯刀の努力が実ったのは、彼が21歳になった年のお正月のことでした。
鹿児島城の奥小姓に任じられ、同じ年の5月には江戸で働くようにと命じられたのです。
長年の苦労が報われ、帯刀もやる気に満ち満ちていたことでしょう。
しかし、江戸にはわずか2ヶ月しかいられませんでした。
特に何か問題があったわけではなさそうなので、おそらく結婚のためだと思われます。
江戸からとんぼ返りした翌年、薩摩の吉利(現・日置市日吉町吉利)という場所の領主である小松家に婿養子入りしているのです。
当主・小松清猷(きよもと)に子供がなかったので、その妹・近(ちか)と結婚することになったのでした。
もしかしたら、奥小姓や江戸詰めも「他の家を継げるだけの力量や人柄があるか」という試験だったのかもしれません。
そして無事お眼鏡に適った帯刀は、小松家の家督を継ぎました。
「帯刀」に名を改めたのは結婚から三年後のことです。
この年に島津斉彬が亡くなり、最後の薩摩藩主となった島津忠義が跡を継いでいます。
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同時期に主従両方で世代交代が起きていたんですね。
日本初の新婚旅行は龍馬ではなく帯刀さん?
島津忠義は帯刀の才を見込んで、薩摩の洋式技術所・集成館や、貨幣の鋳造を任せました。
その後も長崎に行って軍艦や西洋の砲術・砲について学んだり、藩政改革に取り掛かったりと、重要な仕事を次々に受け持つようになっていきます。
この頃の部下に、大久保利通がいたといわれていますね。
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上記の通り、帯刀は若い頃から身分の別け隔てなく話す人でしたので、当時から大久保と親しく話したこともあったのでしょう。
大久保との目立った逸話はないようですが、西郷隆盛との間にちょっと面白いエピソードがあります。
西郷は自宅で初めて帯刀を迎えた際、わざと寝転がって器量を試したといわれているのです。
普通の人ならムカ着火ファイヤーどころじゃありませんが、帯刀は怒るどころか、枕を持ってこさせて西郷をゆっくり眠らせてやろうとしたとか。心、広すぎ。
西郷は慌てて飛び起きて非礼を詫びました。
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島津久光と折り合いの悪かった西郷が、二度目の島流しから戻った後、久光との再会に助力したのも帯刀でした。
詳細は不明ながら、険悪な雰囲気になりそうな場面で上手に取り持った様子がなんとなく想像できてしまいます。
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また、忙しい合間をぬって妻を気遣っていたようで、結婚から間もない頃に薩摩藩内の栄之尾温泉へ旅行したことがあります。
これが日本初の新婚旅行といわれていますね。
知名度のためか、坂本龍馬のほうが有名ですが、小松夫妻のほうが10年ほど先。
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これらの逸話からも、帯刀が身分や性別別け隔てなく、真摯に接していたことが伺えますね。
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