小松帯刀

小松帯刀/国立国会図書館蔵

幕末・維新

小松帯刀(清廉)幕末の薩摩を舵取りした俊英 35年の短すぎる生涯を振り返る

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四侯会議や討幕の密勅、大政奉還にも関わる

帯刀の学んだ技術は薩英戦争や蒸気船建造に活かされた他、同時に朝廷・幕府・他藩との連絡及び交渉もこなすなど、多忙な日々が続きました。

いくら何でも働き過ぎだと思うんですが、帯刀はかつて自ら体を壊しながらも学問に励んだような人です。

「藩のため、ひいては日本のため」

そう思って、無理を続けていたのでしょう。

洋学校・開成所の設置や、【禁門の変】で苦しむ京都市民に(長州からぶんどった)米を配ったり、第一次長州征伐では長州が謝罪するために動いたり、坂本龍馬と親しくなって海援隊設立の援助をしたり、文字通り休む間もなく働き続けます。

薩長同盟締結の場も、帯刀が京都に持っていた屋敷だと言われてますね。

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イギリスとの友好に努める一方で、四侯会議・討幕の密勅大政奉還といった幕末から明治維新までのビッグイベントにはだいたい関わっています。

その功で明治新政府から1,000石をもらっていますが、正直、帯刀の働きに対して少なすぎるような感は否めません。

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享年35 あまりにも惜しまれる死

そんなこんなで新政府になっても帯刀の多忙ぶりは続きました。

が、ついに明治になると、腹部にしこりを生じるまでになります。

左下腹部だったことオランダ人医師アントニウス・ボードウィンが「切除は困難」と診断していることからすると、大腸ガンなどでしょうか。

帯刀本人も、既に死期を感じていたのかもしれません。

領地や家格の返上、辞職を願い出ています。それに対して褒美も出ていますが、慰安のつもりならもっと早くから気遣って欲しかった。

明治三年の年明けには遺言書も作っており、いよいよ……と思っていたようです。

そして7月21日、側室の琴に看取られて亡くなりました。

享年35。

あまりにも惜しまれる早い死でした。

いくら覚悟していたとはいえ、さぞ無念だったことでしょう。これではまるで、帯刀は明治維新のために生まれて死んだようなものです。

歴史を遡ってみれば秀吉の右腕だった豊臣秀長が働き過ぎの結果、兄より先に亡くなり、その後、政権がズタボロになったという例があるにもかかわらず、これほど有能かつ好人物を使い潰してしまったのは大きな損失でしょう。

まぁ、今も「有能な人や善良な人ほど仕事を押し付けられ続けて潰される」というのは変わりませんよね。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon
安岡昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon
小松清廉/wikipedia

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