大河ドラマ『どうする家康』で、渡部篤郎さんが演じていた関口氏純(関口親永)とは一体どんな武将だったのか?
ドラマでは、娘の瀬名が主役の元康と恋愛の末に結ばれ、桶狭間の戦い後、その元康が織田信長に従ったため、氏純は非常に苦しい立場へ追い込まれます。
そして鵜殿長照の上ノ郷城が落ちると、娘を救う代わりに死ぬ――。
果たしてその物語は、どこまで歴史を反映させているのか。
公式サイトで「愛娘には弱い筆頭家老」と紹介される関口氏純、その史実の生涯を辿ってみましょう。
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今川御一家の有力家臣
関口氏純は今川家の御一家衆第二位・瀬名氏貞の二男として生まれました。
ただし生年月日は不明。
兄の瀬名貞綱(氏俊)が永正17年(1520年)に生まれていますので、その数年後のことでしょう。
氏純は元服すると、関口刑部少輔家の娘に婿入りし、そのまま同家の跡を継いだと考えられています。
関口刑部少輔家も今川家臣の名門であり、よって娘の築山殿(瀬名)は、今川家中でも屈指のお姫様でした。
氏純の仮名は「助五郎」とされますが、「五郎」のつく仮名は今川家本家由来であり、それだけ厚遇されていたことも浮かんできます。
そんな氏純は、今川家においては外交面で活躍していたことが史料から判明しています。
居城の持船城も、今川家の本拠地・今川館からわずか7kmほどの距離にあり、信頼度の高さがうかがえるでしょう(TOP画像も持船城/google mapより引用)。
家康と瀬名の恋などありえるのか?
大河ドラマ『どうする家康』では、今川家の人質だった松平元康が、関口氏純の娘・瀬名(築山殿)と恋に落ちて結婚するような展開でした。
この流れは、史実から見て、二つ大きな誤解をしているように感じます。
まず一つめは「今川家の人質」という認識です。
ドラマでの松平家は弱小大名で、今川から見て、かなり下の存在にいるかのようでした。
他ならぬ『どうする家康』の公式サイトでも、関口氏純の人物紹介欄にて
「愛娘・瀬名にめっぽう弱く、人質に過ぎない元康との婚姻を後押しすることに……」(→link)
となっていました。
あたかも「娘の恋愛に押し切られ、嫌々ながらも格下の松平家と結婚させた」というようなニュアンスが漂っていますよね。
しかし、近年の大河では「国衆」の力の大きさが物語にも反映されていて、『どうする家康』もそこを踏まえることが重要ではないでしょうか。
『真田丸』や『おんな城主 直虎』あるいは『麒麟が来る』では、国衆の重要性が認識されながら物語が進んでいきましたが、最近の研究によると、松平家も三河の有力な国衆だという見方が指摘されているのです。
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その当主である松平元康が、今川御一家出身の築山殿(瀬名)を娶るとはどういうことか?
今川家の親類と見なされていたとするのが自然でしょう。
有力な国衆と、血筋の良い姫が結ばれる――今川家にとって、こうした姻戚関係は三河支配を盤石に進めるための重要な一手でした。
そこでもう一つ誤解された認識が浮かんできます。
元康と築山殿(瀬名)の恋愛関係です。
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戦国大名と国衆の関係を示す重要な婚姻だった
関口氏純には、築山殿(瀬名)とその妹、つまり計二人の娘がいたとされます。
前述のように、関口家は今川家一門の名家であり、男子がいない。
そんな状況で、長女の築山殿(瀬名)が恋愛結婚できる自由などまずあり得ません。
当時の恋愛結婚は「野合(やごう)」と呼ばれて蔑まれていた程で、たとえ関口家に跡取り候補の男子がいたとしても、他の姉妹の自由恋愛は難しかったでしょう。
元康と築山殿は、両者とも10歳前後で婚約し、弘治2年(1556年)あたりで結婚したと推察されます。
その頃2人は15歳前後。
3年後の永禄2年(1559年)には、夫妻の間に竹千代(のちの松平信康)が誕生し、続いて亀姫も生まれました。
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歴史ドラマは真実よりも面白い嘘であればよいとされます。
しかし、戦国大名と国衆の関係を示す重要な婚姻を、面白いからといって恋愛に変えてしまうのは、少し乱暴なことでしょう。
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