大河ドラマにせよ他のマンガや映画にせよ、若き日の徳川家康を恐怖のドン底に陥れる存在と言えば、武田軍。
真っ赤な軍装に身を固めた軍団は、いかにも敵兵を威圧する姿ですが、史実の武田軍は全てが赤いわけでもありません。
それは、猛者揃いの武田にあっても、さらに際立って屈強な軍団にのみ許された勇姿――。
“赤備え”として知られ、その祖であるのが飯富虎昌です。
武田四天王の一人・山県昌景の兄(orおじ)であり、武田家きってのこの猛将は同時に、若くして死した信玄の嫡男・武田義信の傅役でもありました。
その結果、最期は不本意とも言える展開で死を迎えてしまうわけですが……いったい飯富虎昌とはどんな人物だったのか?
永禄8年(1565年)10月15日は命日。謎多き生涯を振り返ってみましょう。
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甲斐源氏・飯富氏の血を引く猛将
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で八嶋智人さんが演じた武田信義を覚えていらっしゃいますか?
甲斐源氏であり武田信玄の祖先――。
実は、その系統以外にも、甲府には源氏の血脈が引き継がれていました。
飯富氏の血筋は、源義家の四男・源義忠に遡り、その三男・源忠宗=飯富源太が祖とされます。
そこから数代を経て飯富源四郎へと繋がり、源四郎を父として飯富虎昌は永正元年(1504年)に生まれました。
ただし、諸説あって確たるものではなく、注意が必要です。
虎昌は不明な点も多い人物であり、名前も確定していません。
むろん甲斐で活動していたことは間違いないでしょう。
享禄4年(1531年)には、栗原氏と共に武田信虎に反旗を翻し、大規模な合戦となりました。
信虎は、なんとかこの戦いをおさめると、虎昌は臣従し、以降は従属。
この先は武田の猛将として、数々の合戦で武名を挙げるのです。
そして天文10年(1541年)――信虎の嫡子・武田晴信(武田信玄)が、板垣信方や甘利虎泰らと共に父の信虎を駿河へ追放し、自らが当主となりました。
飯富虎昌もこれを支持したのでした。
信玄の嫡男・武田義信の傅役に
大河ドラマ『真田丸』で「黙れ小童!」の台詞で有名になった信濃小県国衆に、室賀正武がおります。
この室賀氏を降し、降伏折衝にあたったのが飯富虎昌とされます。
板垣信方と甘利虎泰が討死を遂げたあと、虎昌はますますその責任は重くなりました。
村上義清や上杉謙信という、強敵相手にも怯まず立ち向かう猛将。
激戦となった【第四次川中島の戦い】でも、虎昌は奮闘しています。
そんな家中随一の猛者である虎昌は、同時に信玄の嫡男・武田義信の傅役も任されました。
信玄からの信頼がそれだけ厚かったということでしょう。義信の初陣に際しては、虎昌が具足をつける役を仰せつかったともされています。
しかし猛将の運命は、他ならぬ義信と共に暗転することに……。
父と子の対立に巻き込まれた最期
永禄4年(1561年)頃から、信玄と義信の間には不和が生じていました。
さらに信玄が織田信長と同盟(甲尾同盟)を結ぶと、事態は一層深刻なものとなってゆきます。
同盟の一環として、信玄の四男・武田勝頼は、信長の養女(遠山夫人)を妻に迎えました。
この展開は今川氏真との手切れを意味するものであり、今川氏と関係が深い義信にとっては受け入れがたいものです。そもそも……。
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