歌川国芳の描いた飯富虎昌/wikipediaより引用

歌川国芳の描いた飯富虎昌/wikipediaより引用

武田・上杉家

飯富虎昌の生涯|元祖・武田の“赤備え”は信玄と義信の父子対立に巻き込まれ

大河ドラマにせよ他のマンガや映画にせよ、若き日の徳川家康を恐怖のドン底に陥れる存在と言えば、武田軍。

真っ赤な軍装に身を固めた軍団は、いかにも敵兵を威圧する姿ですが、史実の武田軍は全てが赤いわけでもありません。

それは、猛者揃いの武田にあっても、さらに際立って屈強な軍団にのみ許された勇姿――。

“赤備え”として知られ、その祖であるのが飯富虎昌です。

武田四天王の一人・山県昌景の兄(orおじ)であり、武田家きってのこの猛将は同時に、若くして死した信玄の嫡男・武田義信の傅役でもありました。

その結果、最期は不本意とも言える展開で死を迎えてしまうわけですが……いったい飯富虎昌とはどんな人物だったのか?

永禄8年(1565年)10月15日は命日。

謎多き生涯を振り返ってみましょう。

歌川国芳の描いた飯富虎昌

歌川国芳の描いた飯富虎昌/wikipediaより引用

 


甲斐源氏・飯富氏の血を引く猛将

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で八嶋智人さんが演じた武田信義を覚えていらっしゃいますか?

甲斐源氏であり武田信玄の祖先――。

実は、その系統以外にも、甲府には源氏の血脈が引き継がれていました。

飯富氏の血筋は、源義家の四男・源義忠に遡り、その三男・源忠宗=飯富源太が祖とされます。

そこから数代を経て飯富源四郎へと繋がり、源四郎を父として飯富虎昌は永正元年(1504年)に生まれました。

ただし、諸説あって確たるものではなく、注意が必要です。

虎昌は不明な点も多い人物であり、名前も確定していません。

むろん甲斐で活動していたことは間違いないでしょう。

享禄4年(1531年)には、栗原氏と共に武田信虎に反旗を翻し、大規模な合戦となりました。

武田信虎の肖像画

武田信虎/wikipediaより引用

信虎は、なんとかこの戦いをおさめると、虎昌は臣従し、以降は従属。

この先は武田の猛将として、数々の合戦で武名を挙げるのです。

そして天文10年(1541年)――信虎の嫡子・武田晴信(武田信玄)が、板垣信方甘利虎泰らと共に父の信虎を駿河へ追放し、自らが当主となりました。

飯富虎昌もこれを支持したのでした。

 


信玄の嫡男・武田義信の傅役に

大河ドラマ『真田丸』で「黙れ小童!」の台詞で有名になった信濃小県国衆に、室賀正武がおります。

この室賀氏を降し、降伏折衝にあたったのが飯富虎昌とされます。

板垣信方と甘利虎泰が討死を遂げたあと、虎昌はますますその責任は重くなりました。

村上義清上杉謙信という、強敵相手にも怯まず立ち向かう猛将。

激戦となった【第四次川中島の戦い】でも、虎昌は奮闘しています。

川中島古戦場史跡公園の信玄謙信一騎討ちの像

川中島古戦場史跡公園にある「信玄謙信一騎討ちの像」

そんな家中随一の猛者である虎昌は、同時に信玄の嫡男・武田義信の傅役も任されました。

信玄からの信頼がそれだけ厚かったということでしょう。義信の初陣に際しては、虎昌が具足をつける役を仰せつかったともされています。

しかし猛将の運命は、他ならぬ義信と共に暗転することに……。

 


父と子の対立に巻き込まれた最期

永禄4年(1561年)頃から、信玄と義信の間には不和が生じていました。

さらに信玄が織田信長と同盟(甲尾同盟)を結ぶと、事態は一層深刻なものとなってゆきます。

同盟の一環として、信玄の四男・武田勝頼は、信長の養女(遠山夫人)を妻に迎えました。

この展開は今川氏真との手切れを意味するものであり、今川氏と関係が深い義信にとっては受け入れがたいものです。そもそも……。

そもそも武田義信の母・三条夫人も今川氏の仲介あって、武田に嫁いできました。

さらに義信の正室は今川義元の娘です。

義信にとっては深い縁がある一方、信濃からの北上は上杉謙信が立ちはだかり、義元の亡き今川が相手であれば、武田家にとっては駿河へ南下するほうが効率的。

永禄8年(1565年)10月15日――飯富虎昌はこうした父子対立の中、命を落としたとされます。

ただし、この時点で義信は決定的な罪には問われてはいません。

最側近の虎昌を処刑することで、事態の収集をはかろうとしたとも考えられます。

信玄が書いた書状には「義信とは決裂していない」と記されており、そう認識したい思いがうかがえます。

武田信玄の肖像画

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

それでも猜疑心はあったのでしょう。

信玄は周辺の警備を固めて執務にあたったとされ、最終的に虎昌の死によってわだかまりが消えることはありませんでした。

虎昌の死から2年後の永禄10年(1567年)、信玄の嫡男・武田義信は早すぎる死を迎えたのです。

死因は自刃とも、病死ともされています。

いずれにせよ、父・信玄との対立が命を縮めたことは否定できず。

信玄は、ますます深く今川領へ侵攻すしていくのでした。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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