織田信長が本能寺で最期を迎えるとき、そのそばにいたとされる美少年・森蘭丸。
あまりに劇的なシチュエーションであるせいか。
信長の登場作品には必ずと言っていいほど共に描かれ、昨年の大河ドラマ『どうする家康』でも「森乱」という名前で大西利空さんが演じられました。
慣れ親しんだ「森蘭丸」ではなく「森乱」表記なのは、なぜなんだろう……。
そんな疑問も抱かれたかもしれませんが、そもそも森蘭丸とは史実でどんな人物だったのか?
どんな事績があったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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織田家に仕える森家に生まれる
森蘭丸は永禄8年(1565年)の生まれ。
父は信長の家臣・森可成(よしなり)であり、多くの子がいました。
【男】
可隆
長可
成利(蘭丸)
坊丸
力丸
忠政
【女】
碧松院(関成政室)
青木秀重室
うめ(木下勝俊室)
槍の名手だった森可成は、見目麗しき武将……ではなく、数々の戦役で武功を立てた勇将として知られます。
極めつけが【宇佐山城の戦い】でしょう。
浅井朝倉連合軍に挟撃されそうになった織田軍本隊を守るべく、元亀元年(1570年)、大軍を相手に寡兵で応戦。
3万ともされる相手に1千程の兵でよく守り、討死を遂げるまで勇猛果敢に戦いぬきました。このとき長男の森可隆も19という若さで戦死しています。
累代の家臣であり、大きな犠牲を払って織田に仕えた森家の者たち――その忠義には信長も全幅の信頼を寄せたのでしょう。
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父の跡を継いだ森長可(ながよし)は、鬼神の如き猛将として織田家で重用され、弟たちも小姓として側近くに仕えることとなります。
しかし、それは森家にとっては必ずしも幸運だったとは言い難いかもしれません。
なぜなら、3~5番目までの男子が、小姓時代に【本能寺の変】に遭遇し、全員命を落としてしまうのです。
そんな悲運の三兄弟の一人が森蘭丸でした。
信長の側近として、本能寺に散る
時計の針を少々戻します。
本能寺の変が勃発する4ヶ月前、天正10年(1582年)2月のことです。
信長の長男・織田信忠の率いる織田軍と同盟相手の徳川軍は、甲斐へ攻め込み、武田勝頼を滅ぼしました。
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兄の森長可はこの武田討伐で華々しく武功を飾り、信濃国の川中島に領地替え。
これに伴い、弟の森蘭丸が美濃兼山と米田島を与えられます。
前年に近江で与えられていた500石から一気に5万石の大名になったとされ(寛永伝)、蘭丸も織田家に仕えた忠臣の一人として重用されていたことが見てとれましょう。
さらに時を遡って天正7年(1579年)、塩川長満のもとへ遣わされたときは、2年ほど信長のもとで活躍した形跡が文書に残されています。
信長の側に仕え、奏者(そうじゃ・取次役)や副状発給といった、いわゆるアシスタント系の仕事を務めていたのです。
簡単に言うと、贈り物の受け渡しや信長のお使いですね。
こうした記録から「信長の側にいた美少年」として、戦国作品で重宝されるようになったのでしょう。
しかし……。
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