武田信玄のもとで特に活躍した武将たちを顕彰する「武田二十四将」。
真田一族から選ばれたのは戦国時代に同家を躍進させた真田幸綱(幸隆)と、その息子である真田昌幸……ではなく昌幸の兄である真田信綱です(甲府市の公式サイト→link)。
◆武田二十四将に選ばれる真田一族
・真田幸綱
・真田信綱
大河ドラマ『真田丸』における存在感を考えると、何やら不思議な感じがするかもしれません。
なぜ昌幸ではなく幸綱なのか。
あるいは「そもそも幸綱って誰なんだ?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。
実はこの信綱、真田家を継ぐ有能な跡継ぎだったのですが、武田勝頼が織田徳川連合軍に敗れた【長篠の戦い】により、討死してしまったのです。
いったい真田信綱とは、どんな武将だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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真田幸綱(幸隆)期待の嫡男
真田信綱の父は真田幸綱です。
かつては諱が「幸隆」とされていましたが、近年は幸綱とされ、妻・恭雲院との間には多数の男子がいました。
2007年大河ドラマ『風林火山』での恭雲院は「忍芽」という役名で清水美沙さんが演じ、『真田丸』では「とり」という名で草笛光子さんが演じた女性で、史実では以下の男子を産んでいます。
天文6年(1537年):真田信綱
天文11年(1543年):真田昌輝
天文16年(1547年):真田昌幸
天文16年(1547年):真田信尹
不詳:金井高勝
ご覧のとおり、長男の信綱が生を受けたのは天文6年(1537年)のことであり、昌幸とはちょうど10年離れていますね。
一定の年齢に達した信綱は、その後、信玄に近侍して学んだと考えられます。
こうした家臣の子息たちは人質だけでなく、信玄の元で切磋琢磨し、次世代を担う者として育てられたのです。
信玄のもとで兵法を学んだ者たちは総じて智勇兼備であり、だからこそ武田家滅亡後も他の大名家から求められて仕官する者もいました。
大河ドラマ『真田丸』でも、信玄に心酔した昌幸が、信玄を敬愛する情景が描かれています。
幼いころから信玄のもとに侍るようになっていた世代にとって、甲斐の虎は大きく畏敬すべき存在だったのでしょう。
弟の昌幸も、そんな信玄の元で、兄弟揃って学んでいたのでした。
父子で武田家を支える
父の真田幸綱が、長男の真田信綱に家督を継がせる予定だったことは明らかでした。
父子揃って署名する文書が多数残されているのです。
あるいは父の幸綱が上野吾妻郡に進出するときには、信綱が本拠地の信濃に残り、リスクを分散して自領を守る体制が築かれていたことを彷彿とさせます。
三弟である昌幸は武藤家の養子に入り、武藤喜兵衛となりました。
武藤家は、信玄の母である大井夫人につながる名門ですので、信玄や真田家にとってもメリットが多く、この家督を継ぐと本人や周囲も考えていたことでしょう。
信濃や隣国で幾度となく繰り返されてきた武田家の合戦で、真田一族は常に活躍し続けました。
父の幸綱だけでなく、兄・信綱、弟・昌輝が揃って出陣したことも記録からわかり、例えば以下の戦いで
真田一族は武田家中でも名を馳せる、智勇兼備の将として知られたのです。
しかし、そんな武田家の元へ暗雲が迫りつつありました。
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