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【真田信綱】
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長篠に真田兄弟が散る
武田家に大きな翳りが差し込んできたのは永禄10年10月19日(1567年11月19日)のこと。
この日、信玄の嫡男である武田義信が亡くなりました。
死因について、従来は“自刃”とされてきましたが、最近では病死という指摘もあります。
一方、真田家でも、父の幸綱が病気がちになっており、このころ真田信綱に家督が譲られたと目されています。
そして元亀4年(1573年)、大きな支柱だった武田信玄が死去すると、家督は四男の武田勝頼が継ぐこととなりました。
勝頼にとっては不幸な跡目とも言えます。
なぜなら信玄の認識ですら勝頼は正式な後継者ではなく、あくまで中継ぎと考えられてしまい、結果、家中はまとまりに欠け、動揺が続くことになるのです。
信玄の死に伴い、父の真田幸綱は出家して「一徳斎」と名乗るようになり、その翌年の天正2年(1574年)、戸石城で病死します。
享年62。
一つの時代が終わりを告げる、それを象徴とするかのような去り方ですね。
武田家では、信玄世代の家臣が老いて世を去るようになっており、新陳代謝が急がれるところでした。
しかし、家中には暗い翳が落ちています。
厄介な虎であった信玄が亡くなると、周辺の大名たちは慌ただしく動きだし、中でも最も勢いがあったのは織田信長でした。
長篠の戦い
信玄の死から二年後の天正3年5月21日(1575年6月29日)――【長篠の戦い】が勃発しました。
真田家からは信綱と昌輝の兄弟も参陣。
信綱は陣太刀をふるい馬防柵に迫り奮戦するも、雨あられと撃ちかけられる鉄砲に斃れてしまいます。
兄弟は揃って討死を遂げてしまうのです。
享年39。
真田家のみならず、武田家中では当主および後継者を失う家が続出しました。
兄二人を失うも、三男以下が残された真田家はまだマシ。
武田勝頼は、弱体化を止めるべく、家臣の家督相続にも心を砕かねばなりません。
真田家はまだ幼い信綱の子ではなく、武藤家に養子に入っていた昌幸が戻され、家督を継ぐこととなりました。
その際、昌幸は嫡男・真田信之の妻として、兄・真田信綱の娘を迎えることになりました。
武藤喜兵衛から真田昌幸へ。
新たなる真田家当主は斜陽の武田勝頼を支えることとなります。
しかし勝頼は、織田信長と徳川家康の猛攻を乗り切ることはできず、天正10年(1582年)、天目山に散り、武田家は滅びました。
この滅亡を乗り切り、真田昌幸とその一族は新たな時代を生きることとなるのです。
受け継がれた信綱の血と名
真田信綱の男子は与右衛門、信興、信光がいるとされます‘。福井藩士となったとも伝わりますが、確定はしておりません。
女系をたどれば、信之と清音院殿の間に生まれた信吉が真田家の家督を継承。
信綱の血は、女系を通して真田一族に残されたのです。
ただし、信吉の系統である沼田藩は、信利の代で改易とされ、次の信音の代で無嗣断絶となりました。
現在まで続く真田家は、信之と小松殿の系譜となります。
なお、信綱の弟で【長篠の戦い】で討死を遂げた昌輝は、家が絶えたため記録もほとんど残されておりません。
長篠で散った真田兄弟の血は絶えたものの、残ったものはあります。
昌幸は兄への敬慕を忘れていなかったのでしょう。
二男・信繁に兄と同じ「左衛門」と名乗らせました。
この真田信繁は「日本一の兵」と称され、フィクションでは真田幸村として愛され、
現在に至るまで人気ナンバーワンの戦国武将として親しまれています。
真田一族の智勇は、今なお世代を超えて引き継がれているのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
高野賢彦『甲州・武田一族衰亡史』(→amazon)
他