真田信綱

真田信綱/wikipediaより引用

真田家

真田信綱の生涯|武田二十四将にも選ばれる昌幸の兄は真田家の跡取りだった

2024/10/08

武田信玄のもとで特に活躍した武将たちを顕彰する「武田二十四将」。

真田一族から選ばれたのは戦国時代に同家を躍進させた真田幸綱(幸隆)と、その息子である真田昌幸……ではなく昌幸の兄である真田信綱です。

◆武田二十四将に選ばれる真田一族

・真田幸綱

・真田信綱

甲府市公式サイト

大河ドラマ『真田丸』における存在感を考えると、何やら不思議な感じがするかもしれません。

なぜ昌幸ではなく信綱なのか。

あるいは「そもそも信綱って誰なんだ?」と思われる方もいらっしゃるでしょうか。

実はこの信綱、真田家を継ぐ有能な跡継ぎだったのですが、武田勝頼が織田徳川連合軍に敗れた【長篠の戦い】により、討死してしまったのです。

いったい真田信綱とは、どんな武将だったのか?

真田信綱/wikipediaより引用

その生涯を振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

真田幸綱(幸隆)期待の嫡男

真田信綱の父は真田幸綱です。

かつては諱が「幸隆」とされていましたが、近年は幸綱とされ、妻・恭雲院との間には多数の男子がいました。

真田幸綱(真田幸隆)の肖像画

真田幸綱(真田幸隆)/wikipediaより引用

2007年大河ドラマ『風林火山』での恭雲院は「忍芽」という役名で清水美沙さんが演じ、『真田丸』では「とり」という名で草笛光子さんが演じた女性で、史実では以下の男子を産んでいます。

天文6年(1537年):真田信綱

天文11年(1543年):真田昌輝

天文16年(1547年):真田昌幸

天文16年(1547年):真田信尹

不詳:金井高勝

ご覧のとおり、長男の信綱が生を受けたのは天文6年(1537年)のことであり、三男の昌幸とはちょうど10年離れていますね。

一定の年齢に達した信綱は、その後、信玄に近侍して学んだと考えられます。

こうした家臣の子息たちは人質だけでなく、信玄の元で切磋琢磨し、次世代を担う者として育てられたのです。

信玄のもとで兵法を学んだ者たちは総じて智勇兼備であり、だからこそ武田家滅亡後も他の大名家から求められて仕官する者もいました。

大河ドラマ『真田丸』でも、信玄に心酔した昌幸が、信玄を敬愛する情景が描かれています。

幼いころから信玄のもとに侍るようになっていた世代にとって、甲斐の虎は大きく畏敬すべき存在だったのでしょう。

弟の昌幸も、そんな信玄の元で、兄弟揃って学んでいたのでした。

 


父子で武田家を支える

父の真田幸綱が、長男の真田信綱に家督を継がせる予定だったことは明らかでした。

父子揃って署名する文書が多数残されているのです。

あるいは父の幸綱が上野吾妻郡に進出するときには、信綱が本拠地の信濃に残り、リスクを分散して自領を守る体制が築かれていたことを彷彿とさせます。

三弟である昌幸は武藤家の養子に入り、武藤喜兵衛となりました。

武藤家は、信玄の母である大井夫人につながる名門ですので、信玄や真田家にとってもメリットが多く、この家督を継ぐと本人や周囲も考えていたことでしょう。

武田信玄の肖像画

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

信濃や隣国で幾度となく繰り返されてきた武田家の合戦で、真田一族は常に活躍し続けました。

父の幸綱だけでなく、兄・信綱、弟・昌輝が揃って出陣したことも記録からわかり、例えば以下の戦いで

・第4次川中島の戦い(vs上杉氏)

・三増峠の戦い(vs北条氏)

・三方ヶ原の戦い(vs徳川氏)

真田一族は武田家中でも名を馳せる、智勇兼備の将として知られたのです。

しかし、そんな武田家の元へ暗雲が迫りつつありました。

 

長篠に真田兄弟が散る

武田家に大きな翳りが差し込んできたのは永禄10年10月19日(1567年11月19日)のこと。

この日、信玄の嫡男である武田義信が亡くなりました。

死因について、従来は“自刃”とされてきましたが、最近では病死という指摘もあります。

一方、真田家でも、父の幸綱が病気がちになっており、このころ真田信綱に家督が譲られたと目されています。

そして元亀4年(1573年)、大きな支柱だった武田信玄が死去すると、家督は四男の武田勝頼が継ぐこととなりました。

武田勝頼の肖像画

武田勝頼/wikipediaより引用

勝頼にとっては不幸な跡目とも言えます。

なぜなら信玄の認識ですら勝頼は正式な後継者ではなく、あくまで中継ぎと考えられてしまい、結果、家中はまとまりに欠け、動揺が続くことになるのです。

信玄の死に伴い、父の真田幸綱は出家して「一徳斎」と名乗るようになり、その翌年の天正2年(1574年)、戸石城で病死します。

享年62。

一つの時代が終わりを告げる、それを象徴とするかのような去り方ですね。

武田家では、信玄世代の家臣が老いて世を去るようになっており、新陳代謝が急がれるところでした。

しかし、家中には暗い翳が落ちています。

厄介な虎であった信玄が亡くなると、周辺の大名たちは慌ただしく動きだし、中でも最も勢いがあったのは織田信長でした。

織田信長の肖像画

織田信長/wikipediaより引用

 

長篠の戦い

信玄の死から二年後の天正3年5月21日(1575年6月29日)――【長篠の戦い】が勃発しました。

真田家からは信綱と昌輝の兄弟も参陣。

信綱は陣太刀をふるい馬防柵に迫り奮戦するも、雨あられと撃ちかけられる鉄砲に斃れてしまいます。

長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用

兄弟は揃って討死を遂げてしまうのです。

享年39。

真田家のみならず、武田家中では当主および後継者を失う家が続出しました。

兄二人を失うも、三男以下が残された真田家はまだマシ。

武田勝頼は、弱体化を止めるべく、家臣の家督相続にも心を砕かねばなりません。

真田家はまだ幼い信綱の子ではなく、武藤家に養子に入っていた昌幸が戻され、家督を継ぐこととなりました。

真田昌幸の肖像画

真田昌幸/wikipediaより引用

その際昌幸は、自身の嫡男である真田信之の妻として、兄・真田信綱の娘を迎えることになりました。

武藤喜兵衛から真田昌幸へ。

新たなる真田家当主は斜陽の武田勝頼を支えることとなります。

しかし勝頼は、織田信長と徳川家康の猛攻を乗り切ることはできず、天正10年(1582年)、天目山に散り、武田家は滅びました。

この滅亡を乗り切り、真田昌幸とその一族は新たな時代を生きることとなるのです。

 


受け継がれた信綱の血と名

真田信綱の男子は与右衛門、信興、信光がいるとされます‘。福井藩士となったとも伝わりますが、確定はしておりません。

女系をたどれば、信之と清音院殿の間に生まれた信吉が真田家の家督を継承。

信綱の血は、女系を通して真田一族に残されたのです。

ただし、信吉の系統である沼田藩は、信利の代で改易とされ、次の信音の代で無嗣断絶となりました。

現在まで続く真田家は、信之と小松殿の系譜となります。

なお、信綱の弟で【長篠の戦い】で討死を遂げた昌輝は、家が絶えたため記録もほとんど残されておりません。

長篠で散った真田兄弟の血は絶えたものの、残ったものはあります。

昌幸は兄への敬慕を忘れていなかったのでしょう。

二男・信繁に兄と同じ「左衛門」と名乗らせました。

この真田信繁は「日本一の兵」と称され、フィクションでは真田幸村として愛され、

真田幸村(真田信繁)

絵・富永商太

現在に至るまで人気ナンバーワンの戦国武将として親しまれています。

真田一族の智勇は、今なお世代を超えて引き継がれているのです。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

あわせて読みたい関連記事

真田幸隆(真田幸綱)
真田幸綱(幸隆)の生涯|信玄の快進撃を陰で支え 真田氏の礎を築いた昌幸父

続きを見る

真田昌幸
真田昌幸の生涯|三成に“表裏比興の者”と評された謀将 その実力とは?

続きを見る

武田信玄の肖像画
武田信玄の生涯|最強の戦国大名と名高い53年の事績を史実で振り返る

続きを見る

武田勝頼の肖像画/父・武田信玄の跡を継いで戦国の荒波を生き、最後は悲運の滅亡に追い込まれた武田家最後の当主
武田勝頼の生涯|信玄を父に持つ悲運の後継者 侮れないその事績とは?

続きを見る


参考文献

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

-真田家

目次