秀吉といえば信長――。
と、とにかく強固な主従関係を思い描いてしまいますが、実は、秀吉が最初に仕えた人物が信長でなかったことはご存じでしょうか?
それ以前、松下加兵衛之綱(ゆきつな)という人物に仕えていたのです。
てっきり主君は信長だけで、なんだか勝手に裏切られたような気分にもなりそうですが、一方で松下之綱という人物が一体どんな方だったのか?というのも気になるところ。
本記事で、その生涯を振り返ってみましょう。
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松下加兵衛之綱/wikipediaより引用
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松下氏とは
松下之綱は、当時今川氏に属する武士。
遠江の頭陀寺城(ずだじじょう・浜松市中央区)の城主でもありました。
現在の頭陀寺城周辺は海岸線から5~6kmほどの立地ですが、当時はもう少し内側まで海が広がっていたと考えられています。
島国である日本で、海に近いことは商業的な拠点になれることとほぼ同義。
頭陀寺城の場合は天竜川にも近いため、水運の要所となるのはごく自然なことでした。
浜松自体が古来から東海道の要所でもありますし、陸海両方から人や物の出入りが多い土地であり、そこへ少年時代の秀吉がやってきたのもまた、自然な流れだったでしょう。
秀吉の少年~青年期についてはほとんど謎に包まれています。
仮に最初から武家奉公を目指していたら、いきなり今川のような強国に士官するより、まずは手頃なところで踏み台を……と考え松下氏に白羽の矢を立てた可能性も考えられそうですね。
秀吉と松下加兵衛の出会い
秀吉と松下氏がどこでどう知り合ったのか。
最初の出会いは何時だったのか。
その辺の詳細は不明ですが、『名将言行録』にはこんな出会いが描かれています。
秀吉が針売りをしながら東国へ旅していた頃、遠江の引馬の橋の上で休んでいたときに之綱が通りかかりました。
「お主は、どこの国の者か?」
「尾張ですが、これから東国へ働きに行きます」
「その見た目では誰も召し抱えまい」
之綱がそう言いながら笑うと、秀吉は言い返します。
「あなたが気に入らないからといって、他の者も気に入らないとは限らない。浅慮なお方だ」
この失礼な物言いに対し、怒るどころか興味を惹かれたのか。
之綱は驚くような言葉で返します。
「なるほど、それももっともな言い分だ。面白い奴め、わしが召し抱えてやろう」
そんな経緯で秀吉が松下氏に仕えたことになりますが、そもそも『名将言行録』は後年に成立した書物のため、とても史実だとは断定できません。
「そういう面白エピソードもあるんだな」ぐらいに見ておいたほうがよいです。
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若き頃の秀吉を描いた月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』/wikipediaより引用
二人の主従関係は、始まりが謎なら終わりも謎。
秀吉が松下之綱の元でどれぐらい働いたか? ということも不明であり、松下氏のもとを離れた時期や理由も判然としていません。
『甫庵太閤記』では、秀吉が尾張で具足を買ってくるよう命じられたとき「この金を元手にして出世し、親族を養えるくらいになってから具足を調達して松下殿に渡そう」と考え、之綱の元を離れたことになっています。
かなり無茶苦茶な展開ですが、そもそも『甫庵太閤記』自体がそういう本ですので、こちらも「そういう話があるんだな」というスタンスでご覧いただければ。
なお、之綱と秀吉は年齢が同じであり、出会った当時は10代半ばだったと思われるため、「秀吉が仕えたのは之綱の父・長則ではないか?」という見方もあります。
親子で同じ通称を使うことは珍しくありませんし、確定できる史料の発見が待たれるところです。
戦国を渡り歩き 秀吉の元へ
秀吉が松下氏の元を離れ、永禄三年(1560年)に【桶狭間の戦い】が勃発。
今川義元が討たれ、その後、息子の氏真に代替わりすると今川氏は衰退していきます。
松下之綱はどうしたのか?
というと徳川家康の傘下に入り、浜松に屋敷を構えました。立場としては国衆の一人といったところで、特に厚遇された様子はありません。
しかし、意外なところでその名が登場します。
天正二年(1574年)5月に起きた第一次高天神城の戦いで、籠城した者の中に松下氏の名が複数登場するのです。
高天神城は、徳川と武田の境界線にあった城。
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高天神城図photo by お城野郎!
この時点では、高天神城と家康の本拠・浜松城を結ぶ位置にあった二俣城が武田方に落とされ、高天神城は孤立していました。
家康は信長に援軍を要請し、信長も要望に応じています。
しかし、その間に高天神城は西の丸を落とされた上に兵糧が不足し、耐えきれないと判断した城将・小笠原氏助(信興)が降伏して、城を明け渡しました。
この後、之綱は、武田からも徳川からも離れて秀吉の元へ向かったと考えられています。
秀吉は天正元年(1573年)に長浜城主になってから、積極的に人材登用を行っていたため、松下氏の誰かがその噂を聞き、
「かつての恩を感じてくれていれば召し抱えてくれるやも」
と考え、近江へ向かったのかもしれません。
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絵・富永商太
かつての部下に頭を下げて仕えるのは、かなり難しいことでしょう。
一族を養うためだから気にしなかったのか、もともと之綱が妙なプライドのない人物だったのか、あるいは秀吉の才能を見抜いてむしろ仕えたいと思ったか、これまた判断に迷うところです。
二人が再会した時のエピソードもありませんが、翌天正三年(1575年)5月に起きた【長篠の戦い】には之綱も参加。
秀吉から一定以上の信頼は得ていたと判断して良さそうです。
仕官後もトラブルの記録はないので、やはり松下之綱は温厚な人物だったかもしれません。
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