事件前に訪問した長崎でのニコライ皇太子(1891年・上野彦馬撮影)/wikipediaより引用

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大津事件が穏便に済んだのはロシア皇太子ニコライ2世が日本びいきだったから?

明治二十四年(1891年)5月11日は、大津事件のあった日です。

最重要ではないにしろ、歴史の教科書には必ず載っているかと思いますので、聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。

ものすごく端折っていうと「ロシアの皇太子が大津(現・滋賀県大津市)で暗殺未遂に遭った」という事件です。

 


大津事件とニコライ2世

このときのロシア皇太子は、後々ロシア帝国のラストエンペラーになるニコライ2世

本名はニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ。

ややこしいのでニコライ2世で以下統一しますね。

ニコライ2世/wikipediaより引用

彼は要人中の要人で、もし世が世であれば犯人はもちろん、警備の人間がまるっと処刑されてもおかしくはないほどの事件でした。

しかし、実際には犯人ですら無期懲役で済み、知事と警備担当者の罷免はもちろんですが、あとは大臣が3人ほど辞職するだけで終わっています。

辞職した中には、西郷隆盛の弟として知られる西郷従道もおりました。

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コトの大きさを考えればやたらと甘い処分ですが、これは当の被害者が異様なほど寛容な発言をしたからであります。

ニコライ2世は日本の風物をすっかり気に入ってしまったらしく、お忍びで長崎を見物して歩いたり、竜の刺青を入れたり「一国の皇太子がそれでいいのかアンタ」とツッコミたくなるほど日本びいきになっていたのです。

 


明治天皇自ら見舞いに出かけ帰国前には晩餐会

明治天皇御自らお見舞いに行ったこともかなり効果がありました。

事件の後ニコライ2世は京都にいたのですが、明治天皇は報告を受けると即座に向かい、直接お詫びされたそうです。

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ニコライ2世も納得してくれて、

「軽傷で済みましたし、陛下や日本人の厚情に感謝していることは変わりません」
「どこの国にも愚か者はいるのですから」

と穏やかに済ませてくれました。

本当はこの後、東京を訪問する予定だったのですが、ロシア本国から「怪我したんだから無理せず帰ってきなさい」という指示が出て中止になってしまっています。

その代わりに帰国直前の船上で明治天皇を招いた晩餐会をしてくれているので、当時の皇帝やロシア政府からの印象も「国のトップが謝ってくれてんのに、ゴタゴタぬかすのは大人気ないだろ」という感じだったようです。

日本は皇族を謝罪使節としてロシアに派遣することも決めましたがロシアが「いいよ、気にしないで」とここでも寛容さを表明。やさしいな。

事件のとき犯人を取り押さえた車夫2名/Wikipediaより引用

こちらは事件のとき犯人を取り押さえた車夫2名/Wikipediaより引用

本国が激おこスティック(ry)だったら、極端な話ここで日露戦争が始まっていたかもしれません。その場合、かなり危険だったような……。

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この頃は、ある意味、日露関係が最も良かった時期ともいえそうです。

こんな物騒な事件で友好関係を証明されてしまうというのは、何とも後味が悪い話ですが。

ついでに言うと、急激に悪化したのは日清戦争後のいわゆる”三国干渉”でロシア・ドイツ・フランスが日本にアレコレ言ってきたからであって、ニコライ2世や明治天皇の個人的な感情による部分は少ないと思われます。多分。

 


犯行の理由は「ロシアの態度がムカついたから」

さて、日本側では速やかに犯人を処分することを確約したものの、現実問題としてどうするのかは一時難航しました。

当時の日本には、外国の要人を襲った者に対する処罰が定められていなかったためです。

政府の中でも「わが国の皇族へ不敬をはたらいた者と同等(死刑)にすべき!」という人と、「ヨーロッパでは他国の王族と自国の王族を同列扱いにしてないから、死刑は不要」と考える人に分かれました。

結局は後者の意見にまとまり、犯人は無期懲役になっています。

ちなみに犯行の理由は

「ロシアの態度がムカついたから」
「一太刀報いたかったから」
「お忍び?つまり忍者=日本の地形を探りに来たスパイ」(意訳)

という貧相なもので、コロしたいほどロシアやその皇族が憎かったというわけではないようです。

……それをやった結果国際関係がどうなるかとかは考えなかったんですかね。

 

サラエボ事件の場合は?

ここで「他国の要人襲撃事件」としてもう一つ例を挙げてみましょう。

1914年(大正三年)のオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント襲撃事件です。

事件の起きた都市の名を取って”サラエボ事件”と呼ばれていますね。

第一次大戦のきっかけになったこともあり、こちらをご記憶の方のほうが多いでしょうか。

オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント/wikipediaより引用

同じ”皇太子”という身分に害が及んだにもかかわらず、なぜこれほどの差が出たのでしょう?

主な理由は二つ考えられます。

一つめは、事件の当事者二国がもともとどのような関係にあったかということです。

当時の日露関係は上記の通り比較的友好でしたが、オーストリアと事件の起きたボスニア・ヘルツェゴビナ(当時)は真逆=最悪に近い状態でした。

前者が「人種も文化も違うけどそういえばご近所さんだったね。できれば仲良くしようぜ」(超訳)という流れだったのに対し、後者は「オーストリア皇太子だか何だか知らないけど、アンタらのやってることはムカつくんだよ!ブッコロ!!」(同じく超訳)な雰囲気だったので、そもそも犯人の殺意が違います。

 


夫妻揃って殺されてしまったゆえに……

もう一つは、何といっても被害者の状態です。

ニコライ2世も後遺症が残るほどの傷を頭に受けたものの、本人が「軽傷」と言ってくれたのでその後いろいろと穏やかな方向で話を進めることができました。

しかし、フランツ皇太子の場合はご夫婦揃ってその場(正確には搬送先)で亡くなってしまっていますから、ご本人たちの意思云々が全く考慮されずにあそこまでなだれ込んでしまったわけです。
フランツ皇太子自身がその地位につくまでいろいろあった人なので、他の事情もありますがその辺の話はまた改めてしましょう。

この辺の時代は激動過ぎて「暗記第一!」がさらに強まりやすいところですが、こうした視点で見てみるのも結構興味深いものです。

「戦争の原因になった・ならなかった事件」とかでどなたか本を書かれてませんかね。


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長月 七紀・記

【参考】
大津事件/wikipedia
フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エス/wikipedia

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