明治・大正・昭和時代

有栖川宮威仁親王の地味にイイ仕事【大津事件】を収拾した功労者の生涯

今も昔も、身分が違う人の話は、なかなか理解しがたいところがあります。

専門用語が多いことも理由ですが、同じものでも違う言葉で表したり、全く違う習慣があったりしますからね。
本日はその一端が垣間見える、近代の皇族のお話です。

文久二年(1862年)1月13日は、有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)が誕生した日です。

有栖川宮威仁親王/wikipediaより引用

和宮の婚約者だった熾仁親王(たるひとしんのう)の異母弟で、最後の有栖川宮家当主でもあります。

しかも生まれは明治維新の五年前。
時代の激動ぶりをつぶさに体験した人といえるでしょう。

いったいどんな生涯を送ったのでしょうか。

 

明治維新によって門跡が廃止され、海軍へ

威仁親王が生まれたのは、幕末で尊王の気運が高まっていたとはいえ、まだまだ皇族の懐も寂しい状態。
しかも兄の熾仁親王が27歳になっていましたので、有栖川宮の跡継ぎも確定していました。

こうなると、親王とはいえいつまでも実家にはいられません。

そこで「成長したら、妙法院に入ること」という予定が立てられました。

妙法院は現在も京都市東山区にあるお寺で、皇族や貴族の子弟が代々の住職を務めることになっていたところです。
こういうお寺は「門跡(もんぜき)」といい、他とは別格とされていました。

また、妙法院は三十三間堂(蓮華王院)や方広寺(家康がイチャモンつけた鐘のある寺)を管理していたりと、歴史の上でも重要なお寺です。
家から出なくてはならないとはいえ、威仁親王の前途は明るいものに見えました。しかし……。

明治維新で「門跡ってなくてもよくない?」ということになってしまい、威仁親王の妙法院入りも取り消しに。
有栖川宮家が東京へ転居するよう命じられたため、幼い威仁親王も一緒にやってきます。そして12歳のとき、明治天皇から海軍に入るよう命じられ、軍属となりました。

よく「皇族は戦時中もラクをしていた! けしからん!」と息巻く人がいますが、むしろ宮家の人々は軍に入り、率先して規範となるべく頑張っていた人も少なくありません。

「西洋の王侯貴族がそうだから、ウチもそうしないと」という理由もありましたし、「武家の世は終わったのだから、これから国を担っていくのは皇族や公家(出身の華族)の役目だ」という意気込みもあったことでしょう。

 

巡洋艦「高雄」の艦長に就任する

その後、しばらくしても兄の熾仁親王が子供に恵まれなかったため、16歳のときに兄の養子として有栖川宮家の次期当主になることが決定。
イギリス留学や海軍での実務を経て、日本海軍の巡洋艦「高雄」の艦長を務めます。

また、海外留学の経験があることを買われ、ニコライ2世(当時は皇太子)来日の際は接待役に任じられました。

その最中にトンデモナイ大事件が起きてしまいます。

大津事件です。

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もともとニコライ2世は来日後に大の親日家となっていたとはいえ、威仁親王が現場の最高責任者として誠実な態度を見せ、明治天皇のお見舞いを要請することで、ロシアとの関係悪化を防ぐという大仕事を果たしました。

そこから13年後には結局日露戦争が起きてしまうんですが……もしも大津事件での対応がお粗末なものだったら、このタイミングで戦争になっていたかもしれません。
「地味にいい仕事」というやつですね。

威仁親王は、日清戦争時のときにも、もちろん軍属でした。
艦隊勤務になった頃には兄・熾仁親王の葬儀や宮家相続のため帰国せざるを得ず、実戦に関わることがないまま終わっています。

そして正式に宮家の当主となった威仁親王は、ますます明治天皇に重用されるようになりました。

高雄 (巡洋艦)/wikipediaより引用

当時皇太子だった大正天皇の教育係にも任じられ、軍属のまま戦争に関わらない公務を務めます。
威仁親王の男子は夭折してしまっていましたので、もし戦地で何かあったら……という理由が大きかったでしょうね。

 

断絶した有栖川宮の祭祀は大正天皇が高松宮に継承させる

威仁親王は元々体が強いほうではなく、唯一の男子だった栽仁王が亡くなって後は、結核のために神戸の別邸でずっと静養していました。

そして完全に回復することがないまま、四年後に亡くなっています。
有栖川宮の断絶も、これで確定してしまいました。

しかし、大正天皇は幼い頃から薫陶を受けていた威仁親王の家を、完全になくしてしまうことには抵抗を感じたようです。

そこで、自らの第三皇子・宣仁親王に「高松宮」の号を与える際、有栖川宮家の祭祀を継承させることにしました。

有栖川宮威仁が建てた天鏡閣(福島県猪苗代町)・TOP画像の銅像もこの敷地内にある

我々一般人には「結局直系の血筋が絶えてるんだから、意味ないじゃん」とも思えますが、祭祀を継ぐ、というのは皇族にとって非常に大切なもの。
「血を伝えることができないなら、せめて祭祀だけでも」という考え方はありえます。

一般人でいえば「お墓を守る」みたいな感じでしょうか。

現在ではその高松宮家も絶えてしまいましたが……これは戦後に皇籍を離脱した宮家が多かったために、祭祀を継げる家の候補もなくなってしまったからでしょうね。

「祭祀に効果があるのか」というのは悪魔の証明と同義の話だと思いますが、いずれにせよ、文化が途絶えてしまうのは哀しいものです。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
有栖川宮威仁親王/wikipedia

 



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