天保15年(1844年)2月26日は間宮林蔵の命日です。
樺太海峡を発見したとされる方ですが、それは命日から約35年前の文化6年(1809年)のこと。
実際に発見したのは別の幕臣で、林蔵の名前を伝え聞いたシーボルトが海峡の一部に「間宮」と名付けたため、微妙に違うんですが……まあそれはそれとして、実はこの人、類稀な強運の持ち主だったりします。
その生涯を振り返ってみましょう。
※以下はシーボルトの関連記事となります
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伊能忠敬に代わり西蝦夷の測量をこなす
元々林蔵は武士の出身ではありません。常陸国(現・茨城県)の農民の出です。
ではどうして樺太調査という、お上の仕事ができたのか?
というと、地元の治水工事に参加したときに手際を認められて「お前筋がいいから、お役所の仕事してみないか?」と誘われたのがきっかけでした。
もちろん単なるラッキーだけでもなく、幼少の頃から数学的才能を認められていて、それが目に留まったのです。
その後、伊能忠敬から測量技術を学び、師匠が健康を害したとき、代わりに西蝦夷(現在の北海道西部)の測量を担当。
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弟子入りしたのが19歳で、代理をしたのがその4年後ですから、元が農民であることを考えるとかなりの出世スピードではないでしょうか。
こっそり樺太から中国大陸へ!?
興味のあることには全力投球する人だったのでしょう。
本来の仕事以外のことも積極的に取り組んでいたようです。
「アイヌ語をマスターして現地の人と話せるようになった」とか、「蝦夷地にアイヌ語が通じない独自の民族がいることを記録した」とか、お役目の片手間にしては結構な偉業を成し遂げています。
ラッキーだけじゃなく頭の良い方であったのは間違いありません。
また、この鎖国真っ最中の時代に、樺太からこっそり中国大陸に渡ったこともあるそうで、よく物理的に首が飛ばなかったものです。
後世に残された絵だと、いかにも純朴そうな赤ら顔の人なんですが度胸パネェ。
ちなみに、なぜお咎めを受けなかったのかというと、林蔵は隠密として海沿いの地域で起こったアレコレについて報告していたからのようです。
特にロシアとはまだプチャーチンが来る前=正式に国交を結ぶ前のことなので、
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近くをウロチョロされる度に小さないさかいが起きていました。
江戸幕府も国内では最も海外事情に通じており、ロシアに対する警戒感は強めていたんですね。
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