延宝6年(1678年)6月15日は徳川秀忠の娘・徳川和子が亡くなった日です。
彼女が後水尾天皇の後宮へ入内(じゅだい)したのが元和六年(1620年)ですので、かなり長生きされたんですよね。
入内というのはカンタンに言えば皇室に嫁ぐことで、幕府と朝廷の結びつきを強めるこの結婚。
輿入れの当初から彼女の立場は、ほとんど嫁ぎ先と実家との板ばさみになってしまっています。
一体何があったのか?
見てまいりましょう。
※以下は徳川秀忠の関連記事となります
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幕府が朝廷にアレコレ言い過ぎ?
徳川和子が苦労した理由。
それはひとえに「幕府が朝廷にアレコレ言い過ぎた」ことです。
例えば、後水尾天皇が他の女性との間に男の子をもうけていたことに対し、幕府はこんな処分を言い渡しました。
「ウチの娘を嫁がせる前に、その女性とお子さんを処分(流刑に)させてもらいますね^^」
この時代、乳幼児の死亡率は今よりずっと高いのですから、皇統継続のためには何人子供がいても安心しきれなかったというのに、さすがに横暴な話です。
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それでなくても“禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)”で
「皇室の方々はこうこうしてください」
「公家はなんたらかんたらすべき」
等々、徳川家から皇室や公家に対し干渉しまくっていたので、当然、朝廷の人々は日頃からムカついていました。
そんな敵陣に等しい場所へ嫁ぐことになったのですから、和子はさぞ緊張していたでしょう。
夫婦仲はよかった
いざ嫁いでみると、夫婦仲は意外に良好でした。
後水尾天皇と和子の間には二男五女が生まれており、男の子2人はすぐ亡くなってしまったものの、女の子はほぼ天寿を全うしています。
二人とも芸術を好む面があったので、和歌や絵画などの話が弾んでいたとも思われます。
また、和子は苦しい立場ながらに嫁ぎ先と実家のバランスを考えることのできる女性でした。
後水尾天皇は後々幕府の態度にキレて突然、娘の明正天皇に譲位してしまうのですが、女性天皇はもともと”中継ぎ”の役割が大きく、生涯独身を通して子供を産まないことになっていました。
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となると、さらにその次の皇位継承者を考えておかなくてはなりません。
そこで和子は、後水尾天皇と他の女性との間にできた皇子を皇太子に据え、両方の顔を立てたのです。
「天皇家の外戚」としてずっと権力を持ちたかった徳川家としては歯噛みしたかもしれませんが、これは和子の作戦勝ち、もしくは運命の皮肉ですかね。
もしも、和子の産んだ皇子が生きていたら、また違った展開になったでしょう。
こんな感じで和子の生涯は緊張が続いていたわけですが、実は徳川秀忠のもとに生まれた5人の娘の中ではまだ幸せなほうです。
豊臣秀頼に嫁いだ長女・千姫については以下の過去記事に譲るとして、
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他の三人についても簡単に見ておきましょう。
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