延宝6年(1678年)6月15日は徳川秀忠の娘・徳川和子が亡くなった日です。
彼女が後水尾天皇の後宮へ入内(じゅだい)したのが元和六年(1620年)ですので、かなり長生きされたんですよね。
入内というのはカンタンに言えば皇室に嫁ぐことで、幕府と朝廷の結びつきを強めるこの結婚。
輿入れの当初から彼女の立場は、ほとんど嫁ぎ先と実家との板ばさみになってしまっています。

徳川和子/wikipediaより引用
一体何があったのか? 見てまいりましょう。
幕府が朝廷にアレコレ言い過ぎ?
徳川和子が苦労した理由――それはひとえに「幕府が朝廷に対してアレコレ言い過ぎた」ことです。
例えば、後水尾天皇が他の女性との間に男の子をもうけていたことに対し、幕府はこんな処分を言い渡しました。
「ウチの娘を嫁がせる前に、その女性とお子さんを処分(流刑に)させてもらいますね^^」
この時代、乳幼児の死亡率は今よりずっと高いものです。
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江戸期以前の乳幼児死亡率は異常|将軍大名家でも大勢の子が亡くなる理由は?
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皇統継続のためには何人子供がいても安心しきれなかったというのに、さすがに横暴な話でした。

後水尾天皇/wikipediaより引用
それでなくても“禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)”で
「皇室の方々はこうこうしてください」
「公家はなんたらかんたらすべき」
等々、徳川家から干渉されまくっていたので、朝廷の人々は日頃からムカついていたんですね。
そんな敵陣に等しい場所へ嫁ぐことになったのですから、和子はさぞ緊張していたでしょう。
夫婦仲はよかった
いざ嫁いでみると、夫婦仲は意外に良好でした。
後水尾天皇と和子の間には二男五女が生まれており、男の子2人はすぐに亡くなってしまったものの、女の子はほぼ天寿を全うしています。
二人とも芸術を好む面があったので、和歌や絵画などの話が弾んでいたとも思われます。
また、和子は苦しい立場ながらに嫁ぎ先と実家のバランスを考えることのできる女性でした。
後水尾天皇は後々幕府の態度にキレて突然、娘の明正天皇に譲位してしまうのですが、

明正天皇/wikipediaより引用
女性天皇はもともと”中継ぎ”の役割が大きく、生涯独身を通して子供を産まないことになっていました。
となると、さらにその次の皇位継承者を考えておかなくてはなりません。
そこで和子は、後水尾天皇と他の女性との間にできた皇子を皇太子に据え、両方の顔を立てたのです。
「天皇家の外戚」としてずっと権力を持ちたかった徳川家としては歯噛みしたかもしれませんが、これは和子の作戦勝ち、もしくは運命の皮肉ですかね。
もしも、和子の産んだ皇子が生きていたら、また違った展開になったでしょう。
こんな感じで和子の生涯は緊張が続いていたわけですが、実は徳川秀忠のもとに生まれた5人の娘の中ではまだ幸せなほうです。
豊臣秀頼に嫁いだ長女・千姫については以下の過去記事に譲るとして、
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千姫の生涯|秀頼の妻で家康の孫娘は大坂城の脱出後は幸せになれたのか
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他の三人についても簡単に見ておきましょう。
【次女・珠姫】一番幸せな結婚
5人の中では一番幸せな結婚をした人です。
嫁ぎ先は五歳上の前田利常で、三歳(!)で嫁がされているため一緒に育ったも同然。

前田利常/wikipediaより引用
「姫を退屈させないように」ということで花嫁行列に各種芸人が付き添って行ったそうですから、秀忠の親バカっぷりがうかがえます。
この幼馴染夫婦の仲は極めて良く、三男五女に恵まれました。
しかし、珠姫は24歳で産褥のため亡くなってしまいます。
長生きできれば完璧でしたが、彼女が亡くなるまで利常は他の女性との間に子供はいないので、愛されようがわかりますね。
【三女・勝姫】夫がご乱行 息子は改易
従兄の松平忠直に嫁ぎました。

松平忠直/wikipediaより引用
忠直が”乱行”で隠居させられてからは子供達と一緒に江戸に出てきて二度と同居しなかったので、仲が良かったとは言えないでしょう。
忠直との間に一男二女がいて、息子の光長は改易されてしまいます。
娘二人は皇族と公家に嫁ぎ、天寿を全うしているのがせめてもの救いですかね。
【四女・初姫】妻の死より相撲が大事な夫に嫁ぎ
和子のすぐ上のお姉さんです。
そして最も悲惨な生涯をたどった人でもあります。
嫁ぎ先は”蛍大名”こと京極高次の息子・忠高。

京極忠高/wikipediaより引用
その母・初が、初姫の母・江と姉妹なのをいいことに「アンタの娘をうちにくれれば、ウチも将軍家も安泰でしょ?」と半ばゴリ押しして決めた結婚といわれており、夫婦仲は冷え切るどころか最初から温まりもしませんでした。
子供もおらず、その上、29歳の若さで亡くなっています。
しかも初姫死去の知らせが届いたとき、忠高は相撲見物に興じていて席を立とうともしなかったとか。
さらに日頃から冷たい態度を取り続けていたらしく、諸々がバレて徳川秀忠や徳川家光の怒りを買い、初姫の葬儀には京極家関係者は一切の出入り禁止をくらったそうです。
秀忠さん、千姫と初姫の婿選びがアイタタタ……。
彼女達の弟である家光が、珠姫・勝姫の娘を養女として方々に嫁がせているのも、お姉さんたちに気を使った面があるように思えます。実際は政略的な意味のほうが強いにしても。

徳川家光/wikipediaより引用
家光の養女になった三人は夭折した一人を除き、子宝に恵まれ長生きしていますので、婿選びは(も?)秀忠より家光のほうが上手かったと言えそうです。
将軍後継時のゴタゴタがあった上にこれじゃ、家光が秀忠を尊敬しないわけですね。
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【参考】
国史大辞典
徳川和子/wikipedia






