大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では山本耕史さんが何かと裏で立ち回り、冷徹すぎる言動で視聴者の心を寒からしめましたが、今回の注目はその弟・三浦胤義です。
劇中では、岸田タツヤさんが演じ、いかにも熱血漢といった雰囲気でした。
ただ、兄の義村とはいまいち相性がよくないのか。
胤義が何か発言すると「黙っていろ!」と頭ごなしに叱られ、しかも京都に送られ……。
一体この兄弟に何かあったのか?
史実の三浦胤義はどんな最期を迎えたのか?
承久3年(1221年)6月15日は、その命日。
承久の乱で兄や幕府と反目し、壮絶悲哀な死を遂げる三浦胤義の事績を振り返ってみましょう。
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歳の差のある兄と弟
三浦胤義の父である三浦義澄には数多くの子供がいました。
『鎌倉殿の13人』の第1回放送から出ている兄の三浦義村は長男ではありません。
義村は生年が確定しておらず、長寛元年(1163年)に生まれた北条義時より5歳ほど下で、仁安3年(1168年)辺りの生まれと推測されます。
二人とも母は伊東祐親の娘で、義村には他に兄がいながら、嫡男となっています。
ドラマ第1回放送の安元元年(1175年)における義村は、まだ推定7歳前後であり、子役を使わず山本耕史さんが演じるには、かなり無理がありました。
劇中では、ほぼ同年のように見える三浦義澄と北条時政も、実はひと回り程の年齢差があります。
三浦義澄:大治2年(1127年)生まれ
北条時政:保延4年(1138年)生まれ
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そんな義澄にとって、末子だったのが三浦胤義です。
平家が滅亡した元暦2年・文治元年(1185年)頃の生まれとされ、嫡男である義村とは親子ほどの年齢差。
義村が平家と戦っていた頃に生まれていますので、実戦経験もない弟の発言など、兄からすれば笑止千万に思えても仕方なかったことでしょう。
そんな胤義の名が記録に登場するのが、元久2年(1205年)に起きた【畠山重忠の乱】および【牧氏事件】でした。
三浦一門として幕府草創を見つめる
父・義澄が【十三人の合議制】に選ばれ、跡を継いだ義村は幕府で順調に出世していました。
しかし、成功しても三浦一族にとってストレスが溜まる状況だったことは推測できます。
三浦胤義にとって初陣にあたる【畠山重忠の乱】および【牧氏事件】は、陰惨なものです。
重忠は、舅である時政とその継室・牧の方(りく)によって死へ追い込まれ、その時政と牧の方も平賀朝雅の擁立を企んで失脚する。
親戚同士で謀略しまくって、一体何なんだよ!
ドラマをご覧になられて、多くの方がそう感じられたでしょう。
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二つの事件で鎌倉が揺れた後、数年間は平穏な日々が続きます。
しかし、その平和は建暦3年(1213年)、三浦一族にとって酷い形で決裂しました。
【和田合戦】が勃発するのです。
北条義時と対峙した和田義盛。
彼は三浦一族における長老格であり、義村や胤義は、義盛とは共に三浦義明を祖父にもつ従兄弟同士でした。
しかし、その義村は義盛の動きを義時に密告し、同門を手にかけたのです。
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結果、承久元年(1219年)正月、義村は千葉胤綱から「三浦犬は、友をくらふ也」と罵倒されたと伝わります。
鎌倉や御家人の間では、【和田合戦】の後、三浦一門を蔑む目線があったのでしょう。
兄と共に戦った三浦胤義が、その冷たい目線に悩んでいたとしても、無理のないことです。
頼家の妻子と三浦一門
『鎌倉殿の13人』では、三浦義村が北条一門の台頭に不満を抱いているような描写もあります。
三浦と北条は、もともと家格としては大差なかった。
それがなぜこうも水を開けられたのか?と父・義澄に語る場面です。
脚本の三谷氏がこうした描写にしたのも、義村の言動からの推察でしょう。彼がどこまで本気であったか不明ながら、野心があったとみなせる傍証はあります。
二代将軍・源頼家の正室である辻殿(つつじ)と、その子・善哉(後の公暁)と深い関係があるのです。
頼家の妻子には比企一門の若狭局と一幡がいるとはいえ、辻殿は河内源氏の血を引く名門。
跡目争いでは、逆転の可能性もありました。
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頼家にはもう一人、注目すべき側室がいます。
一品房昌寛の娘です。
なぜ注目なのかと言うと、頼家の死後、三浦胤義がこの女性を妻としているのです。
彼女には、頼家との間にできた男児がいて、その子は出家して禅暁と名乗っていました。
もしもこの禅暁が鎌倉殿となれば、三浦一門にとっては大きな利となる。
そんな状況で迎えた建保7年(1219年)正月、鎌倉で大事件が勃発します。
公暁(出家後の善哉)が源実朝を暗殺したのです。
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事件を起こした公暁は、義村が送り出した追手によって殺され、空位となった将軍職にはもう一人の頼家男児である禅暁……とはなりません。
三浦胤義にしてみれば、妻の子ですから、擁立を企ててもおかしくない場面でしょう。
と、そんな野心を防ぐためか。
北条政子と義時は九条道家の子・三寅(のちの九条頼経)を鎌倉に迎え、源氏将軍の断絶を確たるものとします。
そして承久2年(1220年)、禅暁は誅殺され、さらにその一年後、実朝暗殺の衝撃をも上回る大事件が勃発します。
承久の乱です。
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