慶安三年(1650年)5月7日は、家康の九男であり、御三家の一つ・尾張徳川家の初代である徳川義直が亡くなった日です。
生まれが慶長五年(1600年)ですから、ちょうど50歳で亡くなったわけですね(数えで享年51)。
さすが子沢山の徳川家康。
豊臣秀吉が亡くなってアレコレ混乱してた時期でも子をもうける仕事もキッチリとこなし……というわけで今回は徳川義直の生涯を振り返ってみましょう。
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初代名古屋城主に!
徳川義直は大坂城西の丸もしくは伏見城で生まれたといわれています。
幼名は千代君からチェンジして五郎太丸という実に言いにくい名前。
織田信長に対抗したかったのですかね(長男の織田信忠が奇妙丸で、次男の織田信雄は茶筅丸)。
元服が6歳のときなので、家康も最初から「どうせ数年しか使わない幼名だし」とか思っていたりして。
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そんな義直は、当初、甲府藩主として任じられました。
幼いゆえに現地へ行くことはなく、母親と共に父のいる駿府に引き取られて育ちます。
元服の翌年には、夭折した家康四男・松平忠吉の領地だった清洲(愛知県清須市)を継ぎ、そのまま新築された名古屋城へと移り、尾張国の主となります。
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学問を奨励し尾張徳川家の礎を固める
年齢が年齢ですので、実際に尾張へ入ったのは大坂の陣の後でした。つまり家康が亡くなった直後でもあるんですが、喪とかどうしてたんでしょう。
なお、初陣は大坂冬の陣で経験しておりましたが、ご存知のとおりそれは夏の陣を含めて戦国最後の戦い。
交通の要衝である尾張を任せられた義直は、その後、戦ではなく内政重視で取り組みました。
家臣任せにせず積極的に自ら仕事をし、また学問を奨励したことで尾張徳川家の基礎を作ったのです。
儒教が好きだったので基本的にはお堅い人だったと思われますが、その一方で家康の形見としてもらった本や、自分で集めた本を「蓬左文庫(ほうさぶんこ)」という施設にまとめ、一般にも公開するという気前の良さもありました。
蓬左文庫は名古屋市立となって、今でも徳川美術館(尾張徳川家直属の公益財団法人徳川黎明会が運営する私立美術館)や徳川園に併設されているので、名古屋の方や観光に行かれた方にはお馴染みでしょうかね。
ワタクシも一度行ったことがあります。
そんなわけで地味ながらも着実に藩の基礎を作っていった義直。
肉親とはたびたび火花を散らすこともありました。
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