徳川義直

徳川義直/wikipediaより引用

徳川家

家康の九男・徳川義直は家光と火花バチバチ!尾張徳川家初代の生き様に注目

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
徳川義直
をクリックお願いします。

 


家康の息子ゆえに年の近い将軍家光と火花を散らす

「俺は権現様の息子で60万石の大名だぞ」という意識の強かった義直。

特に三代将軍・徳川家光とはよくぶつかりました。

歳にしたら4つしか変わらないんですが、それでも家光にとっては叔父さんですから、長幼の順で考えれば目上ということになります。

雪化粧の名古屋城

また、家光の息子・徳川家綱が神社へお参りに行くとき、幕府から「御三家の皆様も同行なさるように」との知らせがありながら、「無位無官の者に官位ある者がへつらうことはできない」と言って拒否したこともありました。

徳川家綱
四代将軍・徳川家綱を地味将軍と言うなかれ 実は好感度エピソード満載な人だった

続きを見る

そのころ義直は従二位・権大納言という高位。家綱が正式に征夷大将軍もしくは自分と同等以上の官位にならないとやなこった、というわけですね。

ただし、それから三年後、家綱はバッチリ義直と同じ官位になっています。

まだ家光の存命中だったので、もしかしたら意趣返しだったかもしれませんねえ。キャーコワーイ。

とはいえ、この真面目さが良い方向に動いたこともありました。義直は身持ちの固い人で、正室と結構うまくやっていたようなのです。

残念ながら正室との間に子供ができなかったため、側室を娶ることになったのですが、戦国の「子供は多ければ多いほどいい」=「側の女性も以下同文」といった気風が強かった時代にしては珍しいほうです。

ちなみにこのとき、家臣が側室をもらってくださいと言っても嫌がったので、土井利勝が幕命として側室を持つよう勧めたのだそうです。

利勝もあっちこっちで大変ですね。

土井利勝
徳川家の戦国武将から幕府初の大老となった土井利勝の生涯~家康隠し子説はデタラメ

続きを見る

その後、義直の跡を継いだのは側室との間に生まれた光友だったので、めでたしめでたしというところでしょうか。

 


御三家筆頭でありながら将軍を輩出せず

しかし残念ながら、尾張家の家風は真面目すぎて、江戸時代中期のドロドロした政争には向かなかったようです。

六代将軍・徳川家宣が就任からわずか三年で亡くなったときに尾張家当主・徳川吉通。

徳川家宣
在任3年で亡くなった六代将軍・徳川家宣は意外とデキる 白石を用いた政治改革へ

続きを見る

七代将軍・徳川家継が夭折したときの当主・徳川継友

それぞれ将軍候補に上がったことがありました。

ところが、です。

皆さんご存知の通り、尾張家からは一人も征夷大将軍になった人がいません。候補に上がった段階で、皆突如として亡くなってしまっているからです。

あまりにもタイミングがアレな上、この他の尾張藩主や息子達もやたらと急死や夭折が多く、きな臭いどころの話ではありません。

いくら医学が未発達で乳幼児の死亡率が高い時代だとはいえ、一番環境がいいはずの藩主の一族がこの有様というのは、怪しいですよね……。

ようするに政敵からのスパイがアレコレしたのでは……という疑いが濃いわけですが、残念ながら「疑い」の範疇を出ません。悪寒が的中なら、いい仕事しやがる。

もし、尾張家にそうした狡猾な政敵に対抗できるだけのがめつさ……もとい悪賢さがあれば、一人くらいは将軍の座についていたかもしれません。

御三家筆頭といわれながらも、尾張家だけが将軍の輩出皆無というのはあまりにも、ねえ……(´・ω・`)

水戸家も徳川慶喜が一橋家に養子入りしたからこそ将軍になれたのですから、ある意味ギリギリですけどね。

徳川慶喜が将軍になるまで
だから徳川慶喜を将軍にしたらヤバい! 父の暴走と共に過ごした幼少青年期

続きを見る

じゃあ勝ち組は紀州家かと思えば、現代では断絶がほぼ確定視されていますし。

そういえば尾張藩主と言えば、これまたなかなか無茶した徳川宗春もおりましたね。

質素倹約を推奨する幕府とは真逆の道を行き、名古屋を好景気に沸かせながら、やり過ぎて失脚した御方です。

徳川宗春
徳川宗春のムネノミクスで空前の好景気「名古屋の繁華に京(興)がさめた」

続きを見る

尾張藩って面白いですなぁ。


あわせて読みたい関連記事

御三卿
御三家と御三卿って何がどう違う? 吉宗の創設した田安と一橋が将軍家を救う

続きを見る

徳川家康の生涯
三河の戦国大名・徳川家康の生涯~人質から天下人になるまで苦難の道を辿る

続きを見る

織田信長
尾張の戦国大名・織田信長49年の生涯~数多の難敵と対峙し天下人になるまでの道

続きを見る

コメントはFacebookへ

織田信忠
信長の跡を継いだ織田信忠 なぜ本能寺の変で自害に追い込まれた? 26年の儚き生涯

続きを見る

織田信雄
信長の次男・織田信雄は本当に愚将だったのか?信長の血を後世に残したその生涯

続きを見る

松平忠吉
家康の四男・松平忠吉は関ヶ原で大活躍!10万→52万石へ大出世も28歳の若さで

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
菊地浩之『徳川家臣団の系図』(→amazon
『歴史人 2019年 9月号』(→amazon
徳川義直/wikipedia

TOPページへ


 



-徳川家
-,