天正十年(1582年)に本能寺の変が勃発。
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その後【山崎の戦い】で明智光秀を破り、清須会議では三法師(後に織田秀信)を神輿に担ぎ、さらには柴田勝家との【賤ヶ岳の戦い】にも快勝した――。
破竹の勢いの豊臣秀吉にとって目障りだったのが徳川家康である。
【甲州征伐】や【天正壬午の乱】を経て、旧武田家の人材や所領を得た徳川。
かつてないほどに戦力は充実しており、石高では秀吉に遅れを取るものの気力では決して負けないものがあり……。
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今、秀吉vs家康が始まる。
天正の石直し
◆石田三成を評して「ソロバンに強い」ということがよく囁かれますよね。
数字に強いということは、検地だけでなく兵站にも向いている――ゆえに【鳥取の飢え殺し】でも【三木の干し殺し】でも自軍の兵糧を確保しながら、敵を追い込むことができたわけで。
仕事だけ見れば評価されるのも納得です。しかし、人心とはまた別の問題でもあり……。
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大坂城築城
◆秀吉といえば大坂城。配下の加藤清正といえば熊本城。安土城は……丹羽長秀さんが担当でしたね。
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織田・豊臣ゆかりの武将には築城名人が多いですが、とにかく石垣で有名なのが藤堂高虎さんでしょう。
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伊賀上野城の石垣は、高さなんと約30メートル!
城を見上げた瞬間、攻める気が失せたでしょうなぁ。
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