慶応四年(1868年)3月6日は、戊辰戦争の局地戦の一つ・甲州勝沼の戦いがあった日です。
戊辰戦争は同時期に各地で戦闘が起きているので、時系列ごとに追っていくのは難しく……本稿ではこの戦いの主役である新選組サイドから見ていきましょう。
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勝に命じられて甲州へ
鳥羽・伏見の戦いの後、新選組は、先に船で江戸に向かっていた徳川慶喜や松平容保を追って、江戸へ戻ってきていました。
そして新選組局長・近藤勇は、勝海舟から「ちょっくら甲府まで行って、新政府軍を止めて時間を稼いでくれ」(意訳)と言われます。
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近藤はこれを引き受けました。
新選組は【甲陽鎮撫隊】と名を改め、近藤勇や土方歳三らは偽名を使って、一路甲府へ向かいます。
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戦闘の舞台となったのは、現在の甲州市勝沼町。
今ではぶどう畑やワイナリーなどで有名なところですが、当時は信濃~甲府~江戸を繋ぐ甲州街道(現・国道20号の一部)の宿場町のひとつでした。
新政府軍を食い止めたい
勝沼を越えると、新選組にとっては故郷である多摩も近くなります。
新選組の隊士の中には、実家や家族を守るために、新政府軍を食い止めたいと考えていた人もいたことでしょう。
「幕府側としては、新選組が扱いにくかったから別行動を取らせた」なんて話もあり、当時の時代情勢が滲み出ていますが、例えば敵方の西郷隆盛にしても江戸にテロ部隊(相楽総三の赤報隊など)を放っており、各勢力の思惑が激しく交差します。
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と、この辺りで肝心の甲陽鎮撫隊で問題が起きます。
甲陽鎮撫隊は新選組のメンバーだけで構成されていたわけではなく、やる気があるのかないのかわからん連中が多くいたからです。
そのため、近藤は率いるだけでも一苦労。
やる気(ry)な連中のご機嫌を取るために道中で大名行列ばりの遊びをした上、天候の悪化もあって、甲府到着が予想よりはるかに遅れてしまいました。すると……。
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