1475年(文明七年)3月6日、天才として知られるミケランジェロ・ブオナローティが誕生しました。
日本では【応仁の乱】真っ最中の頃に、
「最後の審判」
「ダヴィデ像」
など、今なお世界中に名を轟かせる名作が作られていたんですね。
一度見たら忘れられない。傑作の数々を作り上げたミケランジェロとは一体どんな人物だったのか?
振り返ってみましょう。
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家を飛び出し芸術の道へ
前述の通りミケランジェロは1475年生まれです。
イタリア・トスカーナの名家に生を受け、幼い頃から芸術への高い関心を持ちながら育ちました。
父親とはソリが合わなかったようで、大ゲンカをしてまでその道を選びます。
14歳で一人前と認められ、その選択が間違っていなかったことが証明されると、彼はさらに自信を深めて芸術の世界へ踏み込んでいきました。
最初に絶賛を浴びた彫刻「ピエタ」はそれから11年後、25歳のときに完成した作品です。
実は、ピエタとは、この彫刻単独の名前ではありません。
「磔刑に処された後のキリストを聖母マリアが抱いているシーン」という意味であり、他の芸術家も彫刻や絵画を数多く制作しているのですが、ミケランジェロの本作品が高名すぎて固有名詞のようになっているのです。
彼はピエタを4体製作したといわれているものの、通称「サン・ピエトロのピエタ」と呼ばれるこのときの像以外は未完です。
このことからも、同作品が、自他共に認める最高傑作であることがわかります。
聖母マリアが若すぎるとか。
計算すると2m以上の大女になってるとか。
そんなツッコミもあるようですが、そもそもは像としての完成度を高めるための演出と構図を優先したからでしょう。
本人はホームレスと間違われることも
ピエタ完成の翌年には、ダヴィデ像の製作を始めました。
世界史の教科書で必ず出てくる、ちょっと目のやり場に困るアレですね。
ピエタが認められたことによって、彼は故郷に錦を飾るような形になり、父親や弟達との関係も良くなりました。
不定期ではあるものの、貴族から受けるさまざまな依頼で莫大な報酬を受け取っていたミケランジェロは、家族が困るたびに惜しげもなく経済支援をしていたそうです。
本人はあまり贅沢が好きな人ではなかったようで。道楽等に耽ることなく、お金の使い道に困っていたのかもしれません。
なんせそれは徹底していて、質素な生活だったため、ホームレスと間違われることもあったとか。まさに全身全霊を作品に注いでいたのでしょう。
残念すぎるバカ弟たち
残念なのは彼の弟。
親の七光りならぬ兄の七光りでダラけたため、父とミケランジェロはいつも悩まされておりました。
こんな話があります。
それは彼が、ローマ教皇に依頼され、【天地創造からノアの大洪水までを描いた天井画】を制作していた頃(1508年 - 1512年)のことでした。
ミケランジェロは父親から一通の手紙を受け取ります。そこにはこんなコトが記されておりました。
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