甲州勝沼の戦い

『勝沼駅近藤勇驍勇之図』/wikipediaより引用

幕末・維新

哀しき甲州勝沼の戦い「甲陽鎮撫隊」となった新選組がついに解散へ

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
甲州勝沼の戦い
をクリックお願いします。

 

ゲリラ戦に持ち込めれば、少しは勝機も?

既に西洋式兵器の力を見せつけられている後ですから、近藤たちには幕府から同等の兵器を与えられておりました。

しかし、こんな調子では訓練する時間もありません。

運ぶ人員すら不足していたせいで、途中で半分ほど捨ててしまったそうです。

これでは戦う前から勝敗が決まっていたようなもの。

近藤も土方もいろいろ試みましたが、結局増援は来ませんでした。

土方歳三
土方歳三35年の生涯まとめ~生き急いだ多摩のバラガキが五稜郭に散る

続きを見る

いっそのこと新選組メンバーだけで徹底した訓練を行い、砲術部隊と白兵部隊に分けて、ゲリラ戦に持ち込めばまだ勝機があったのかもしれません。

実際、戦力として期待されていたであろう沖田総司が、病気療養のため江戸に引き返していたので、いずれにせよ作戦変更は難しかったでしょうけれども。

何でしょう、この八方ふさがり感。

沖田総司
沖田総司は新選組の最強剣士か?享年27で夭折した一番隊組長の生涯

続きを見る

一方、新政府軍は、3月1日には3,000の兵を率いて甲府城へ入っていました。

甲陽鎮撫隊も布陣を試みますが、江戸を出たときには300いた兵が121にまで減ってしまっていたそうです。

さんざんお金も使ったのに、近藤や土方が可哀想すぎて涙がちょちょぎれます。

 

トップの思い切りが良くないと下の苦労はガチで半端じゃない

3月6日、戦闘は始まりました。

展開は火を見るより明らか。

江戸から引っ張ってきた大砲は新政府軍の砲撃であっという間に破壊され、それに恐れをなした兵が逃亡、甲陽鎮撫隊は戦線を維持できなくなって敗走してしまいます。

八王子付近まではある程度隊の形を保っていたものの、そこから先は中核であった新撰組のメンバーさえも散り散りになり、各自、別の道をたどることになります。

官軍が迫っている割に佐幕派の行動がアレすぎますが、おそらく「朝敵」になってしまったことで

「今、積極的に参戦したら、負けた後どんな目に遭うかわからない」

「もっと大勢でも長州にすら勝てなかったのに、今更勝てるわけがない」

といった空気が強まってしまったからなのでしょう。

そうでなければ、せめて江戸城に残っていた抗戦派だけでも甲陽鎮撫隊に協力したのでは……。

まぁ、身分の壁や差別意識などの理由で動かなかったかもしれませんし、動いていても不和を起こして結果は変わらなかったかもしれません。

錦の御旗まで持ちだされてきては、軍事的にまともな抵抗ができる可能性はなかった気はしますが。

近藤勇はその後、再起を試みます。

が、さすがに流れは取り戻せず、甲州勝沼の戦いから約2ヶ月後の4月25日に没します。享年35でした。

あわせて読みたい関連記事

近藤勇
近藤勇が新選組で成し遂げたかったこと 関羽に憧れ「誠」掲げた35年

続きを見る

土方歳三
土方歳三35年の生涯まとめ~生き急いだ多摩のバラガキが五稜郭に散る

続きを見る

西郷隆盛
西郷隆盛 史実の人物像に迫る~誕生から西南戦争まで49年の生涯

続きを見る

相楽総三
最後は西郷に見捨てられた 相楽総三と赤報隊は時代に散った徒花なのか

続きを見る

勝海舟
なぜ勝海舟は明治維新後に姿を消したのか?生粋の江戸っ子77年の生涯

続きを見る

永倉新八
永倉新八こそが新選組最強か?最後は近藤と割れた77年の生涯まとめ

続きを見る

斎藤一
謎多き新選組の凄腕剣士・斎藤一72年の生涯 その魂は会津に眠る

続きを見る

原田左之助
新選組十番隊組長・原田左之助は幕末をひたむきに生きた青年剣士

続きを見る

沖田総司
沖田総司は新選組の最強剣士か?享年27で夭折した一番隊組長の生涯

続きを見る

徳川慶喜が将軍になるまで
徳川慶喜を将軍にしたらヤバい? 父の暴走と共に過ごした幼少青年期

続きを見る

勝海舟
なぜ勝海舟は明治維新後に姿を消したのか?生粋の江戸っ子77年の生涯

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
甲州勝沼の戦い/Wikipedia

TOPページへ

 



-幕末・維新
-,

×