「滅びたわけではないのに、自然と寂れていった……」というケースも多々あります。
本日はその一つ。誰もが一度は覚えるあの場所に注目してみました。
和銅三年(710年)3月10日は、平城京に都が遷った日です。
その前は藤原京。
その後の平安京については別記事をご参照していただくこととして、今回は奈良の平城京に注目したいと思います。
794年の遷都から始まった平安京~当時の街並はどんな風に区画整理されていた?
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ただし、今日まで形が残っている部分も多い平安京に対し、平城京はまだ発掘調査中でアヤフヤなところもあるのですが……。
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平安京と違い、東側に大きな外京が張り出している
平城京も中国の都をモデルとして作られたものなので、基本的には長方形かつ、碁盤の目状に町並みが広がっていました。
しかし、一部凸凹があり、正確な(?)長方形ではありません。
東側には「外京」と呼ばれる、大きく張り出したような部分もあります。
もし平城京と平安京の図を出されて「どちらが平城京か答えよ」なんて問題がテストに出たとしたら、点数を稼ぐチャンスですね。
平安京と同じく朱雀大路を中心に
道の作りは平安京とほぼ同じ。
平城宮(皇居&政庁)から南へまっすぐ伸びる朱雀大路、東西に都を横断する大路が北一条・南一条から十条までありました。
朱雀大路の両サイドにも大路が作られていましたが、平安京と違ってそれぞれに固有名詞はついていなかったようです。
不思議な事に、朱雀大路のすぐ外側両サイドが「一坊」、さらにその外側を「二坊」というように、左右で同じ名前がついています。
「左京一坊」とか「右京二坊」と呼んで区別していたとか。
以下は平安京の全体図になります。
ちなみに平城京から長岡京を経て平安京へ遷都した後、以来、京都が「千年の都」となるわけですが、一度、平城京へ戻されようとしたことがあります。
平城上皇が復権を狙って平城京への遷都を宣言し、嵯峨天皇に止められた政治事件。
それが【薬子の変】ですね。
薬子の変は薬子が平城上皇を誑かしたから?平城京で一体何が起きていたのか
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