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【平城京】
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東大寺をはじめ薬師寺など有名寺院がずらり
平城京=奈良といえばやはりお寺の存在感が大きく、中でも「南都七大寺」と呼ばれるものが有名です。
外京にはそのうち、藤原氏の氏寺・興福寺や、「奈良の大仏」で有名な東大寺、蘇我馬子が開基したお寺の後身・願光寺があります。
興福寺・延暦寺・本願寺はなぜ武力を有していた? 中世における大寺院の存在感
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左京にはなぜか大安寺しかないのですが、右京には東大寺と対となる位置に西大寺、「薬師三尊像」で有名な薬師寺があり、なんとなくバランスが悪い感じがしますね。
また、失明しながらも来日した僧侶・鑑真の開基で知られている唐招提寺も右京にあります。
こういった大きなお寺は概ね宮殿を囲むような位置にあるので、そういった意図で建てられた可能性もありますね。
これだけ多くの建築物を作ったり、道路を整えるには、それ相応の資材も必要でした。
では資材はどこから供給したのか?
その供給場所として選ばれたのが、現在の滋賀県大津市南部にある田上地区です。
近辺には良質なヒノキがたくさん植わっていて、川を使って新都造営予定地まで運べるということから、木材の調達に選ばれたのでした。
しかし、平城京造営のためにかなり思い切って伐採したらしく、木がなくなったことで田上山付近は洪水が頻発するようになってしまったのだとか……。
江戸時代あたりから植林を本格化させ、明治時代にはお雇い外国人のオランダ人技術者が携わったにもかかわらず、なんと現在に至るまでハゲ山状態のところがあるそうです。どんだけー。
今は今でゴルフ場のためにガンガン山を切り開いたりしているので、航空写真で見てもどの辺が平城京造営時にハゲてしまったのかがわかりにくいのですが、スケールのデカさだけはうかがえます。
平安京へ遷都した後、田んぼや畑にされてしまい
上記の通り、平城京はまだ発掘中です。
しかし、エジプトなどのように砂塵に埋もれてしまっただとか、ローマその他の古代都市のように埋め戻されたわけでもないのに、平城京を「発掘」しなくてはならない……というのはちょっと妙な気もしますね。
それはなぜなのか?
実は、平安京に遷都された後、平城京はほとんど田んぼや畑にされてしまっていたのです。そりゃあ遺構が土の下に埋まってしまうわけですよね。
そんなこんなで今も研究者の手によって発掘が進められているわけですが、復元されている建築物もいくつかあります。
儀式場だった「第一次大極殿」。
平安京にもあった「朱雀門」。
外京の南半分側にあったとされる皇太子の宮殿(の庭)「東院庭園」。
いずれも中々の迫力で再現されており、他にも発掘現場そのままの状態を見ることができる「遺構展示館」などもあります。あちこちに点在しているので全部まわるのはなかなか骨が折れそうです。
どうせなら、古の都を復元するのと同時に、その礎となった山の回復も推し進めてもらいたいものですが……そううまくはいきませんかね。学術調査だけでも相当なお金と時間がかかるものですから。
どこかの企業や資産家がポーンとお金を出して、発掘と観光客誘致をまとめてやってくれたらいいんですけどね。
奈良は歴史がある町の割に交通の便で損をしていますし。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
平城京跡Quick Guide
国営平城京跡歴史公園/国土交通省
平城京/wikipedia