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【明智光忠】
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いざ本能寺へ!
日付は前日の夜。
本能寺の信長は家臣らと語り合った後、彼らと別れて寝所へ入ったと言われています。
そこへ未明になって、乱入したのが光忠や秀満、利三らの家臣。当時、本能寺の周辺にはほとんど兵力が残っておらず、夜襲は極めて効果的でした。
襲撃のとき、肝心の光秀は現地におらず、約8km離れた鳥羽にいた――というニュースも出ておりましたが、信頼できる家臣団が圧倒的大軍で本能寺を囲んでいれば問題なしと判断した可能性もありますね。
◆光秀、本能寺には行かず? 金沢の古文書、家臣の証言(→link)
結果、信長はアッサリと自害に追い込まれたとされ、その後継者で既に家督を継いでいた織田信忠も自害を余儀なくされます。
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こうして戦勝を収めた明智勢でしたが、ご存知のとおり彼らの天下は長くは続きません。
中国地方から舞い戻った羽柴秀吉によって窮地に追い込まれ、まもなく【山崎の戦い】で敗れました。
光秀は、戦場から逃走する際、落ち武者狩りに遭い、亡くなったと伝えられます。
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一方で光忠は、山崎の戦いに参加することはできなかったとも伝わります。
本能寺へ攻め込んだ後、織田信忠が籠る二条御所を攻撃したときに負傷したというのです。
戦に参加することはなかった光忠。
そのもとに「光秀が敗れた」という知らせが入りました。
燃え盛る坂本城を見ながら……
この時点で光忠は、自身および明智家の末路を悟ったでしょう。
彼は「死に場所」を求めるようにして、本拠であった坂本城へ。たどり着くと、死を前にして城の天守へ火を放ちました。
ただし、城に火を放ったのは明智秀満であるという記載も残されており、放火の主は誰なのか、いまいちハッキリしておりません。
いずれにせよ、燃え盛る坂本城を眼前に光忠が亡くなったことは間違いないでしょう。
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一世一代の大勝負に参加できず、力を出し切ることがないままこの世を去ることになった光忠。
最期にド派手な逸話を残した左馬助(秀満)に比べるとやや地味な印象もぬぐえませんが、重臣として明智家を支えました。
彼がどのような心情で焼け落ちていく坂本城を眺めていたのでしょうか。
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文:とーじん
【参考文献】
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像』(→amazon)
小和田哲男『明智光秀・秀満(ミネルヴァ書房)』(→amazon)
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変(筑摩書房)』(→amazon)
「明智光秀の親族・家臣団と本能寺の変」『女性歴史文化研究所紀要』18巻(京都橘大学女性文化研究所)田端泰子
明智光忠/wikipedia