明治35年(1902年)1月30日は日英同盟が結ばれた日です。
この同盟の影響からか。
我が国はヨーロッパ諸国の中でも特にイギリスとの結びつきが伝統的であるかのような印象ですが、実際はさにあらず。
最も付き合いが古いのは、出島で交易をしていたオランダですね。
もちろんイギリスも付き合いは深く、幕末から日英同盟にかけての時期には非常に急接近していました。
薩摩や長州の倒幕を助け、その後も明治新政府に強く関わっていたのです。
しかし、悲しいかな、とても対等な国と国のお付き合いとは言えませんでした。
良く言えば教師と生徒。
悪く言えば傀儡。
同時代を描いた2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、この辺の事情にはほとんど触れられなかったため勘違いされている方も多いかもしれません。
いったい日英関係とは如何なるものだったのか?
その歴史を振り返ってみましょう。
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四百年以上の日英関係
日英関係はいつから始まるのか?
だいたい四百年前とされていますが、これはイギリスだけでなく他の西洋諸国との関係が始まった時代でもあります。
大航海時代、宗教改革、航海技術の発展……そうした要素が重なり、アジアにもヨーロッパ人がやってきたんですね。
その際、念頭に置いておきたいのは、イギリス人が【宗教改革】の後に来日した点です。
要は、布教が目的ではない。
カトリックとプロテスタント(英国など)を比較すると、こんな特徴があります。
【カトリック】貿易だけでなく布教もします!
【プロテスタント】貿易に徹します! 宗教を広めるつもりはありません!
商売やるならプロテスタント、といったところでしょう。
日英関係はビジネスで始まった――この点も重要です。
※以下はオランダ極東進出と宣教師の記事となります
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三浦按針以降途絶えた日英関係
徳川家康に気に入られた三浦按針ことウィリアム・アダムスは、江戸幕府で重用されました。
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スペイン、ポルトガル、フランスなど、他国へ布教を試みるカトリック教国には、断固たる態度の幕府。
一方、プロテスタントに対しては、商売上の理由から闇雲に遠ざけたりはしません。
ゆえに英国人の三浦按針も重宝されました。
世界史的に見ても、17世紀はスペインからイギリスへ覇権国家が移りゆく時代でもあったのです。
しかし、アダムスと家康の関係性が重要であった日英は、二人の死後、翳りが見えるようになりました。
オランダが出島でのポジションを築き、日英関係は徐々に微妙なものに……。
確かに徳川秀忠がジェームズ1世に甲冑(ロンドン塔に収蔵)を贈ったりもしていますが、ハッキリ言ってしまえば儲からない。むしろ赤字。
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イギリスからしてみればコスパ問題がのしかかり、平戸のイギリス商館も本国から持て余されるようになっていったのです。
次第に関係が薄れていく両国。
と、そのタイミングで日本側に警戒心を抱かせる情報が、オランダ人経由で飛び込んできました。
ジェームズ1世の孫にあたるチャールズ2世が、ポルトガルからカトリックのキャサリン・オブ・ブラガンザを王妃に迎えたというのです。
島原の乱以降、幕府はカトリックに対して厳重に目を光らせていました。
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もしもイギリスまでカトリックになったらどうする?
そんな懸念も日英関係に影響したのでしょう。
1673年を最後に、この先120年間、イギリス船が日本を訪れることはなくなりました。
そのうち日本ではカトリックとプロテスタントの区別も曖昧になり、イギリス人は「異人」、船は「外国船」という分類にされてゆきました。
イギリスの脅威が東洋に到達する
イギリスは海洋国家――そう高らかに宣言される通り、彼らは極東への進出も止めることはなく、18世紀になると幕府のルールを無視して日本に上陸することがありました。
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ただし、言葉があまりに不慣れなため、意思の疎通は難しく、船籍すら確定できないこともしばしば。
蝦夷地に上陸し、アイヌから水や薪を入手したこともあったと言います。
そしてそのほとんどは無害な接触でした。
黄金の国ジパングを目指している冒険心旺盛なイギリス人。
水と薪を求める捕鯨船の乗組員。
日本人と慣れぬ言葉で交流し、友情もそれとなく育まれたことがしばしばありました。
捕鯨船が日本の難破船を保護したこともありました。
しかし帰国させようとしても、基本は、上陸どころか接岸すらできません。
やむなくイギリスまで連れて行かれた避難民が、日本人で初めてイギリスに上陸した者であるかと推察されます。
ジョン万次郎のように漂流してしまった後に日本へ帰国して、しかも歴史に名を残す者などごく少数なのです。
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こんな調子で、緩やかだった日英の交流に、ある衝撃的な事件が起きます。
【フェートン号】事件です。
時は、ナポレオン戦争の最中。フランスの支配を受けることとなったオランダ。
となれば英国の敵である!
日本にあるオランダの出島商館も攻撃するぞ!
そんな、あまりにも理不尽な理由で、突如、長崎がイギリス海軍から襲撃を受けたのです。
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この衝撃的な事件を、当然、幕府も把握していました。
薩長を主役に描いた幕末フィクションの影響からか、幕府は「外国事情を全く認識してない」アホな連中に描かれがちですが、実際はそんなことありません。
諸藩からの情報も集まっていたし、注意も払っていました。
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フェートン号事件が起きたからといって、ただちに戦争状態になるワケでもなく、素朴な漁民や地方役人、そしてアイヌたちは、まだまだ平和な日英交流を続けていました。
しかし、激怒した人物もいました。
徳川斉昭です。
断固、夷狄を追い払え! 船に乗り込んで切り捨てよ!
そんな過激な思想を醸成&飛躍させ、攘夷運動へと煽っていくのです。
もちろん斉昭が、イギリスを警戒することは為政者としては自然の反応と言えます。
日本が手本としてきた隣国・清が阿片戦争で大敗しており「次は日本ではないか?」と緊張感を強め、同様に日英関係もまた緊張していくのです。
幕府の対応もまた素早いものでした。
オランダ語だけではなく英語のできる通詞養成をし、情報を集め、備えていたのです。
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幕府が最も危険視していたのはイギリスでした。
彼らはいずれ必ず開国を要求してくるはず。そのとき如何なる対応をすべきか。
そんなことを考えていたら、最初にやってきたのはアメリカのペリーでした。少し悠長に考えていたイギリスとしては「やられた!」というべき不意打ち。
「予想外のアメリカ」という点は、実は重要だったりします。
アメリカだけでなく、イギリスにしても日本と貿易をするメリットはかなり大きい。
というか最も旨味を感じるであろう西洋諸国の筆頭がイギリス――それが幕末という時代でした。
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