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【幕末明治の日英関係】
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イギリスにとって幕末日本の価値とは?
一つ考えたいことがあります。
なぜ日本は、清と違ってイギリスなどの西洋諸国から支配されなかったのか?
主な理由を3つほど考察してみましょう。
・地理的な問題
山林が多く、高低差もあり、広大な農地がない。
広大な中国大陸と比べると、穀物の生産地としてはあまりに貧弱だった。
・金は掘り出すまでもない
黄金の国ジパングだ。金は魅力的だ!
と思われそうですが、その果実の大半は日本人が採掘済みで、もはや在庫は残っていません。
それならば自国貨幣と小判を交換して、安全に金を得た方が楽ですし、実際、当初は不平等な換金率だったのです。
この不平等の是正は幕府が取り組んでいます。
日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節団において、小栗忠順が貨幣の金含有率を調べ、交換率の適切な小判(万延小判)を鋳造するようにしたのです。
・治安が悪い!
サムライソードを持ち歩いたローニンがウロウロしている! おお神よ、私は遠い異国ジャパンで死ぬかもしれません!
そう誓いを立てながら、日本へ渡ってきた外交官は大勢います。
そんな国を無理に支配しようったって、逆に人的コスト・金銭的コストがバカになりません。
しかし、その一方で、生糸や魅力的な輸出品は確かにある。
アメリカを筆頭に多くの国が触手を伸ばしているからには、乗り遅れるわけにもいかない。
こうしてイギリスは虎視眈々と幕府と交渉するフェーズに突入してゆきます。
実際、フランスが幕府と接近すると、英国商人からは不満の声が上がり始めます。
フランスは生糸貿易を優先的に行うことを条件に、借款をすると幕府と契約を結んでいました。アイツらばかり儲けて汚いぞ!と商人たちがイギリスに訴えたのです。
薩英の接近
幕府に接近し、うまいこと生糸貿易の利権を得たフランス。
ライバルに先を越されて地団駄を踏むイギリスに、思わぬチャンスが舞い込んできます。
【生麦事件】です。
かねてから、彼らが警戒していたはずのサムライソードに対し、あまりに無防備に近づいた一行が島津久光の大名行列にかち合い、殺害されたこの事件。
自国民殺傷への報復と保護を掲げるのは戦争の口実としてうってつけです。
彼らも本音では『サムライの風習を破るなんて愚かだな』と冷静でしたが、こんなチャンスを見逃すはずもありません。
すかさず薩摩に攻撃を仕掛け、鹿児島の街は焼けました。
しかし、不思議なことに人的被害はイギリス側の方が多い。
どういうことか?
わざわざ地球の裏側まで商売にやってきたイギリスが、戦いに本気でなかった可能性が考えられましょう。
もちろん薩摩側の手際の良さや応戦っぷりが良かったのは確かにあると思います。
しかし、これから戦いが本格化!という直前で「出鼻を挫いて交渉をしてはどうか?」と考えるイギリス人がいてもおかしくありません。
なんせ薩摩側としても、和睦のメリットは大きいのです。
・貿易で最新鋭の欧州製武器が買える
・憎きイギリスと真正面から闘ったということで、薩摩国内のみならず全国の志士たちからの支持を得られる
それまでの薩摩藩は「攘夷」に対して現実的であり、水戸藩や長州藩のような理論先行型のムチャは押さえ込んでいました。
しかし、思わぬきっかけで「攘夷のエース」に躍り出るのですから不思議なものです。
この頃の薩摩藩は幕府の中枢にいて、島津久光は参預会議の一員でした。
しかし将軍・徳川家茂の後見を務める徳川慶喜が、久光に敵愾心を燃やし、嫌がらせのようなことをしばしば行っている。
薩摩藩内の反幕府勢力は、久光によって押さえられてきましたが、その重石が取れてしまえば簡単なこと。
イギリスという同盟者を見出し、薩摩藩内での倒幕派が勢いを増していったのです。
パークスと五代、パリで暗躍
大河ドラマ『青天を衝け』では、パリ万博に訪れた渋沢栄一たちの裏で、不敵な笑みを浮かべる五代友厚が印象的でした。
これが実際に興味深い諜報戦でして……。
策略に富む英国のハリー・パークスは、アレクサンダー・フォン・シーボルトに目をつけていました。
シーボルトはスパイとしてうってつけの人材。
語学力:英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、日本語、中国語もマスター
日本との縁:何かと縁があるオランダ人であり、かつ父は日本でも著名なあのシーボルト
こうした明晰な頭脳だけでなく、日本に対して深い縁もゆかりもありますから、パリ万博へ向かう慶喜の弟・徳川昭武一行に接近、すっかり信頼を得ることができました。
恐ろしいことに昭武一行の行動、つまり幕府サイドの情報はイギリス外務省に筒抜けであり、その文書は現在も保管されているそうです。
薩摩と意を合せたイギリスは、パリで幕府権威の失墜に努めます。
マスコミを抱き込み、新聞で「信頼できるかどうか疑念」という趣旨の記事を書かせたのです。
琉球として薩摩も出展していて、様々な思惑が交錯しました。
そんな状況であるにも関わらず、昭武一行はロンドンへ向かいます。
すっきりしない天候のもと、丁寧でありながらどこか突き放したようなイギリス外務省と面会し、立場を説明しています。
幕府がフランスを、そして薩摩がイギリスを選んだことは重要でした。
第二帝政のフランスは、メキシコ皇帝として送り込んだマクシミリアンが処刑されてしまうなど、外交においてミスが目立ちます。
パークスをはじめ、狡猾なイギリスとの差を踏まえますと、幕府はどこか手ぬるかったと思えてしまうのです。
昭武一行は欧州留学を目指していました。
しかし、これもイギリスは一歩先を行っていたと言える。
五代友厚らを送った薩摩藩だけでなく、長州藩からも【長州ファイブ】としてお馴染みの留学生たちを受け入れていたのです。
余談ですが、伊藤博文の最終学歴を「松下村塾」とする記述を見かけます。
これは正確ではありません。
伊藤博文はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学んでいます。
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