著名な戦国大名にも当然「父親」がいるわけで、仮に大河ドラマともなれば、必ずと言っていいほどその存在もクローズアップされます。
信玄なら父親を追放するし、信長なら葬儀で抹香をぶちまける――もはやお約束のシーンですね。
では、明智光秀はどうか?
大河ドラマ『麒麟がくる』において、主役に抜擢された光秀。
その周囲に、明智光安(みつやす)という「叔父」は登場していました。
※以下は明智光安の生涯まとめ記事となります
明智光安は城を枕に討死したのか~光秀の叔父とされる謎多き武将の生涯を辿る
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演じるのは『真田丸』でも好演が話題を呼んだ西村まさ彦さん。
主人公に近い重要な役どころでしたが、あくまで叔父であり、劇中、光秀の父親は出てきません。
そして結局、最終回まで光秀の実父は登場しませんでした。
なぜなら彼の場合、出自や前半生についてあまりにナゾが多く、一応、
「明智光綱(みつつな)が父親ではないか?」
と推測されてはいるものの、何ら確証を得られないばかりか、そこを突っ込むと
「光秀が明智氏を詐称したのではないか?」
という問題にまで突き進んでしまうリスクがあるのです。
一体どういうことなのか?
父とされる明智光綱の存在を問いながら、混沌の光秀出自についても考察してみたいと思います。
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美濃斎藤氏に仕え早死した明智光綱
明智光綱に関する記録は、一次史料の類に残されていません。
『明智軍記』や系図類から推測できる程度。
それによると光綱は、明智頼典または明智光継という人物の子供として生まれました。
明智氏は、美濃守護・土岐氏から分岐して生まれた名門一族の庶家であり、室町幕府の奉公衆も務めた家格です。
しかし彼らの本流だった土岐氏は戦国時代に入って衰退。
その隙をついて斎藤道三が台頭してきました。
近年、斎藤道三の国盗りは「親子二代によるもの」という見方が強くなりましたが、本稿ではすべての事績を道三が成し遂げたものとして進めます。
斎藤道三は如何にして成り上がったか? マムシと呼ばれた戦国大名63年の生涯
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この道三の台頭に対し、土岐明智氏は、美濃の地で生き残るため味方するようになったと伝わります。
明智光綱の時代に成し遂げられたことでした。
光綱は、彼の父と同様、美濃明智城主となり、おそらく一定の勢力を維持していたのでしょう。
ところが光綱は元来病弱であり、天文7年(1538年)にはあえなく死亡してしまいます。
残された明智光秀はまだ幼く、後見人として叔父の明智光安・明智光久・明智光廉がつけられました。
この通り、後世の軍記物(小説)ですら、父の明智光綱については、天文7年(1538年)に早逝したこと「だけ」しかわかりません。
逆に、それ以上のことは特定しがたい。
非常に厳しい状況です。
明智光綱は本当に光秀の父親なのか?
ここまで俗説の光綱を追ってきました。
俗説ですらほとんど情報がなく、もはや言い伝えのレベルです。
今後、決定的な史料でも出ない限り、明智光綱の実像を語るのは不可能にすら思えてきます。
それでも「光綱が光秀の父である」という言説が根強いのはなぜか。
例えば、光秀のwikipediaでは、異説ありと注釈しながらも「明智光綱」を父と記しており、広く浸透しつつあるように感じます。
果たして本当に「明智光綱」を父親としてしまってもよいものか――最新の研究を踏まえながら、この部分を考えていたら自分でも恐ろしい結論がアタマから離れなくなっておりました。
それは明智光秀が「土岐明智氏」を自称(つまり詐称)していたという可能性です。
一つずつ見ていきたいと思います。
まず、光秀の出自を記している系図類について。
非常に多くのものが現存し、内容はてんでバラバラ、どこかしらの部分で誤りや疑問点を含むものばかりです。
しばしば参照されるのは『明智系図』や『土岐文書』といった史料でしょう。
『明智系図』といっても、確実性は保証されておりません。
なんせ、江戸時代末期に編纂された『系図纂要』という系譜集と、『続群書類従』(塙保己一編纂『群書類従』の続編)に収録されている『明智系図』では異なる記載が存在するほど。
いずれも全幅の信頼は置けません。
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