明智光秀が本能寺の信長を襲うと決めたとき、最初に打ち明けた重臣が四名いると言われています。
明智左馬助(秀満)、斎藤利三、藤田伝吾……そして今回の主役となる明智光忠。
光秀の従兄弟とされる人物です。
この光忠、丹波八上城を任されるほど信任の厚かった武将ですが、彼もまたナゾ多き明智一族の人物。
前半生の記録は暗闇の中にあり『明智軍記』をもとにした推定の話が多くなります。
その点を踏まえながら生涯を振り返ってみましょう。
明智光忠もまたハッキリしない前半生
明智光忠は、光秀の叔父・明智光久の子として生まれたとされます。
ただし出典が江戸時代の軍記物(小説)である『明智軍記』のため、確証は得られません。同書には、虚偽や誤りがあることをご理解ください。
なんせ「明智光忠」という名前すら確実なものではなく、「明智次右衛門」とか「高山次右衛門」という別名で史料に記載されることもあるほど。
その上で話を進めますと、光忠の父・明智光久は、光秀の後見人であった明智光安と共に美濃の明智城を拠点に活躍していたと言われます。
光安とは、大河ドラマ『麒麟がくる』で西村まさ彦さんが演じられた武将であり、その息子が明智左馬助という設定でしたね。
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一説によれば、光久も斎藤道三に仕えており、弘治2年(1556年)に道三とその息子・斎藤義龍が争った【長良川の戦い】では、どちらの勢力につくかの判断を迫られました。
最終的に、光秀の叔父・光安が「日和見」を決定。
明智城に籠城すると、その対応を義龍に許されることはなく、明智城は攻め込まれてしまいます。
結果、敗北。寡兵の明智勢はよく戦いながらも、光安、光久が討死してしまいます。
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このとき光秀も死を決意しておりましたが、事前に光安や光久が制止し、彼らの息子である明智秀満や明智光忠の将来を託したという有名なエピソードもあります。
明智光忠の活躍については、この後、光秀が信長に仕えるまで有力な史料には登場しません。単純に考えれば、光秀の従兄弟として付き従ったのでしょう。
そうなると光秀と共に越前・朝倉義景を頼ったと考えられますが、これも『明智軍記』を典拠とした話で真偽の程は不明。
単に、越前領内で臥薪嘗胆の時を過ごした可能性もあります。
丹波攻略戦の後 八上城を任される
明智光忠の名前が史料上に登場するのは、すでに光秀が織田信長の重臣として活躍していた天正5年(1577年)のことです。
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当時、丹波国の攻略を任されていた光秀は、京都の亀岡に「亀山城」という平山城を建造。
丹波攻略の拠点であるだけでなく、将来的には丹波地方全体の中心として重要な役割を果たす城になります。
そしてこの城の守備を任された人物として光忠の名前が浮上してきます。このような要衝に配置されるということは、すでに光秀の信頼が厚かったことを窺わせますね。
系図類においては、光忠が光秀の従兄弟であるだけでなく、光秀の次女を妻としていたという記述も見られ、二人の間には単なる主従以上の関係があったとも考えられます。
光秀の丹波攻略戦は、光忠ら家臣の貢献もあり無事に勝利で幕を閉じました。
丹波を征服した光秀には丹波一国がそのまま与えられ、織田家の筆頭家臣としての地位を確立するのです。
光忠も戦で滅亡に追い込んだ波多野氏の居城であった八上城を任されており、依然として有力な家臣であったことがわかるでしょう。
光秀の謀反を相談され共に天下を目指した
重臣としての地位を確立した光秀。
天正10年(1582年)6月に、突如として信長を裏切り【本能寺の変】を引き起こしたことは皆さんもご存じでしょう。
光秀の動機については現代でも特定されていませんが、彼はことを起こす直前に信頼の厚い重臣4名に計画を打ち明けたといいます。
前述のとおり
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そして光忠といった顔ぶれです。
彼らの間でどのようなやり取りが交わされたかについては想像で補うほかありません。
ただ、本能寺の変を引き起こすことができたということは、彼らの同意を取り付けたのが事実と見て間違いないでしょう。
そして、天正10年6月2日未明。決行の時がやってきました。
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