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【足利義尚】
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ストレスから逃れるように酒色に溺れ
現在であれば、会社の社長も国の元首も、プライベートでは「心を休めるための」しかるべき時間や方法が用意されているでしょう。
しかし室町時代には「精神の健康」なんて概念はほぼ皆無です。
憂さを晴らすための方法も数えるほどしかありません。
そして義尚は、おそらく古今東西の男性にとって最も手頃かつ危険な手段を選びました。
いわゆる「酒色に溺れる」というやつです。
この点をもって「義尚は暗愚だった」「夜の生活を頑張りすぎて若死にした」とする見方が強いようですが、上記の通り、当時の義尚はストレスフルにも程がある状況でした。
程度の問題はあれど、同じ状況に置かれて、なおかつ禁欲できるような人がいるのでしょうか。
それこそ寿命が縮みそうです。
一番良いのは、義尚自身が六角討伐に出陣するのではなく、誰か信頼できる家臣に任せることだったでしょう。
しかし応仁の乱によってそういう人物がいなくなってしまったために、義尚が出てこざるを得なくなった……と考えると、本当に何のメリットもなかった戦いでした。
辞世にさえ、自分の意志が反映されていない?
その虚しさは、義尚の辞世の句にも表れているように思えます。
義尚の辞世は三つあるのですけれども、中でも際立っているのが以下の句です。
ながらへば 人の心も 見るべきに 露の命ぞ はかなかりけり
【意訳】長生きしたのなら、人の気持ちをわかろうとすることも必要だろうに。人の命なんて儚いものなのだから
これは完全に私見ですが、上の句(前半)は応仁の乱の一因でもある母・富子への愚痴、下の句(後半)はそれに逆らいきれないまま死にゆく我が身を嘆いているような気がします。
義尚の句は、実は後撰和歌集・巻十三の中に、よく似たものがあります。
なからへば 人の心も 見るべきに 露の命ぞ 悲しかりける
【意訳】もう少し長生きできたら、あの人の気持ちがわかるかもしれないのに、露のような我が命が悲しいことよ
誰かがテキトーにこれを引っ張ってきて「義尚の辞世です」としたんですかね。
本歌取り(有名な歌をもじって別の歌を読む手法・教養を示す意味もある)にしても似すぎてますし、義尚は和歌の才があったとされていますので、そういう人があまりにも「まんま」な歌を詠むだろうか……という気もします。
あるいは、晩年の義尚がうろ覚えで書きつけたものが辞世扱いになった、というのもありえるでしょうか。
そちらの説でいくと、「辞世にさえ、自分の意志が反映されていない」というこれまた悲しいことになってしまいます……。
長享3年(1489年)3月26日に死没。享年25という若さでした。
歴史上の功績や知名度等ではサッパリな義尚ですが、同時代の人には「穏やかな性格で文武に長けたイケメン」(超訳)と評されています。
もう少し長生きできていたら、幕府の権威を取り戻し「中興の祖」と呼ばれるような将軍になっていたかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon)
足利義尚/Wikipedia
長享・延徳の乱/Wikipedia