朋誠堂喜三二(平沢常富)

朋誠堂喜三二(平沢常富)/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』尾美としのり演じる朋誠堂喜三二~蔦重と手を組む武士作家の実力は?

大河ドラマ『べらぼう』で尾身としのりさんが演じる朋誠堂喜三二

「ほうせいどう きさんじ」というペンネームで、本名は平沢常富という久保田藩(秋田藩)の藩士です。

彼は一体何なのか?と、視聴者の話題をさらいました。

それというのもオープニングクレジットで出演が宣言されるも、ほとんど出番がなく、どこにいるのかわからない状態がずっと続いていたのです。

それが第12回になってようやく正体が明かされ、主人公の蔦屋重三郎を助けるなどして、吉原の祭りを盛り上げるために一役買ったことが劇中で描かれました。

ただ、それでも疑問は残ったかもしれません。

この頃は、武士が吉原に寄り付かない時代のはずなのに、なぜ彼はしょっちゅう出入りしているのか。

公式ページでは、こんな人物だと説明されています。

江戸城で久保田藩の留守居(外交官)を務める武士。

同時に「宝暦の色男」という異名をもち、奇想天外な大人の童話や歌舞伎の筋書きをもじったパロディーなどの偽作を書く作家である。

蔦屋重三郎の最高かつ最大の協力者となる。

武士でありながら、軽薄なニックネームを名乗り、いかがわしい作家稼業にも手を染めている。

現代ならば、公務員がYouTuberや同人誌活動で目立っているようなものでしょう。

しかも主役である蔦重にとって「最高かつ最大の協力者」とあるのですから、今後も欠かせない人物であることは明らか。

ではいったい朋誠堂喜三二とは何をした人物なのか?

そもそも武士なのに作家活動などできるのか?

今回は、当時の身分制度を踏まえてから、朋誠堂喜三二の活動を振り返ってみましょう。

朋誠堂喜三二(平沢常富)/wikipediaより引用450

 


武士は痩せ 商人が肥える時代

『べらぼう』時代の武士とは一体どんな存在だったのか?

まず最初に思い出して欲しいのが「士農工商」です。

江戸時代の身分制度を表すものとして、歴史の教科書でも馴染み深いこのシステム。

2021年大河ドラマ『青天を衝け』では、ドラマ本編の開始前に徳川家康による解説コーナーが入り、その第5回放送で「士農工商」が扱われましたが、今や古い概念であり、日本史の教科書からも消えていると説明されました。

現実には、ガチガチに固定された制度でもなかったんですね。

その詳細については以下の記事に譲り、

士農工商
実は結構ユルい「士農工商」の身分制度~江戸時代の農民や町人は武士になれた?

続きを見る

『べらぼう』の時代を見てみますと、当時は武士とクリエイターを兼任する人物が増えつつも、娯楽の担い手は都市部の町人が目立つものでした。

江戸幕府が始まった頃は、そうではありません。

舞台芸術一つとっても、武士階級が好んだ【能楽】が拡張高いものとして存在。

例えば、天下泰平が訪れたことを分かち合おうとした三代将軍・徳川家光が、能興行に江戸の民衆を招き、着飾って現れた民たちを見てことのほか喜んだという話があります。

徳川家光/wikipediaより引用

しかし、時代がくだるにつれ、その状況は変化。

町人こそが文化の担い手となり、【能楽】よりも【歌舞伎】が隆盛するようになりました。

経済的に見ても、武士は余裕をなくす一方であるのに対し、商人は豊かになってゆきます。

なんせ武士の石高(収入)は基本的に上がりません。

中国や朝鮮で導入されていた科挙もなく、いくら頭がよくても高待遇には繋がらず、ましてや戦もないため武功を立てられるチャンスはない。

一方で町人はアイデア次第で金儲けができる。

固定的で地味、くすむばかりの武士に対し、江戸の町人は流動的で輝く――それが『べらぼう』の時代であり、頭の切れる武士であればこんな風に考えてもおかしくありません。

「己の才知で、成り上がってみようじゃねえか!」

カネは無くても教養はある。そんな武士の頭脳を創作に活かすことができれば、本を売る版元にとって旨味のある人材となる。

そこで目端の利く連中は、生まれ育ちは二の次で、光る才能を探していました。

そのお眼鏡に適ったのが朋誠堂喜三二だったのです。

 


出羽久保田藩江戸詰120石の武士・平沢常富

朋誠堂喜三二は享保20年(1735年)、西村平六久義の三男として生まれました。

蔦谷重三郎が寛延3年(1750年)生まれですので、一回り年上ですね。

この時代、武家の二男以下は養子となることも多く、朋誠堂喜三二も14歳で出羽国久保田藩平沢家の養子に出されました。

平沢家は、剣豪として名高い愛洲移香斎(あいす いこうさい)を先祖に持ち、江戸詰を務める家。

朋誠堂喜三二は才気にあふれていたのでしょう。

藩主の小姓から始まり、近習役、刀番と出世を重ねてゆきますが、青年期を迎えた宝暦年間(1751−1764)になりますと、すっかり江戸で遊びを覚えていたようです。

「宝暦の色男」

そう自称していたというのですから、とんだパリピではないですか。

 


鱗形屋孫兵衛のお抱え作家となる

武士としての顔だけでなく、文人としても活動していた朋誠堂喜三二。

一体どんな実績を重ねていったのか?

明和6年(1769年)には、鱗形屋孫兵衛の『吉原細見 登まり婦寝』(とまりぶね)の執筆者に名を連ねています。

そして鱗形屋との繋がりが、さらなる飛躍の契機となります。

鱗形屋は孫兵衛で三代目となる【地本問屋】で、当時の江戸で頂点に君臨していました。

画像はイメージです(地本問屋の様子/国立国会図書館蔵)

地本とは、上方の書物ではなく、江戸で出版された新たなジャンルの本のこと。

エンタメである以上、常に刺激的な作品を生み出す必要があり、ヒットメーカーであることが求められ、それに成功したのが鱗形屋孫兵衛でした。

『べらぼう』では片岡愛之助さんが演じ、初めは蔦重を受け入れるも、偽板事件の後に憎むようなってしまった【地本問屋】ですね。

実用書を扱う【書物問屋】とは異なり、ヒットを連発していかねば経営が成立しないことが【地本問屋】の悩みだと劇中でも明かされていました。

第12回放送では、蔦重に協力しないよう一家総出で土下座までしていましたね。

安永4年(1775年)には、恋川春町による『金々先生栄花夢』が、鱗形屋から世に送り出されました。

『金々先生栄花夢』は、新ジャンルとなる【黄表紙】の元祖とされ、時代を変えたエポックメイキングな作品とも言える。

恋川春町『金々先生栄花夢』/国立国会図書館蔵

そして『金々先生栄花夢』出版の翌安永6年(1777年)に、満を持して黄表紙の『親敵討腹鞁(おやのかたきうてやはらつづみ)』を発表したのが朋誠堂喜三二でした。

挿絵を手掛けたのは恋川春町であり、ヒットメーカーが共作するという豪華なもの。

朋誠堂喜三二は、恋川春町と並ぶトップクラスの作家であり、鱗形屋孫兵衛専属ともいえます。二人が協力して作品作りに励む姿もまたドラマの中でありましたね。

しかし、鱗形屋の経営は苦しいものがありました。

黄表紙を世に送り出した安永4年(1775年)、【重板】(剽窃)事件により幕府から処罰を受けてしまうのです。

こうした経営ミスが祟り、安永8年(1779年)には出版が止まってしまい、ついには江戸の版元としては姿を消してしまった。

『べらぼう』の主役である蔦屋重三郎は、この鱗形屋孫兵衛から出版のいろはを習い、流通においても頼っていたところ。

ゆえに鱗形屋が潰れると、蔦屋も影響を受けてしまう。

窮地に立たされていました。

ただし、『べらぼう』では鱗形屋が潰れる以前に、蔦重は決裂しています。今後どうなるか気になるところでしょう。

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