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【足利義稙】
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越中まで逃亡 兵を借りて再び上京を果たす!
日野富子の策略も知らず、京都に戻ってきた義稙。
龍安寺に幽閉されてしまいます。
そして富子は、堀越公方・足利政知の子である足利義澄を担ぎ上げるのです。
一連の流れを【明応の政変】と呼びます。
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実は足利義澄も、この時点までは京都の天龍寺(足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために作ったお寺)で僧侶をやっていたのですが……。
政変がなければそのまま静かに生涯を送れたかもしれなかったのに、気の毒なことです。
一方の足利義稙も、幽閉されて黙ってるわけにはいきません。
こっそり抜け出したかと思えば、なんと越中にまで逃げ、畠山政長の家臣・神保長誠の元に身を寄せます。
そこで兵を借りて、近江坂本まで出陣。
延暦寺や高野山の僧兵をも味方につけて京都奪回を図りました。
何とも勇ましいというか、転んでもただでは起きないという感じがしますね。
「勇猛な将軍」というと十三代・足利義輝が挙げられることが多いですけれども、義稙もなかなかのものです。
血縁関係にすると、義輝の曽祖父(政知)と義稙の父(義視)が兄弟なので、「ちょっと離れた親戚」ぐらい。
義満にもちょっと似ているでしょうか。
日明貿易で金を持ってる大内氏
しかし、この越中・僧兵連合軍が、残念ながら奮わずじまい。
細川政元の兵に敗れ、義稙は河内を経由して山口まで流れていくのでした。
なんだか足利義昭と似た感じがするのは私だけでしょうか。
義稙は簡単に諦めず、次に西国の雄・大内義興(よしおき)の協力を要請しました。
大内氏は日明貿易で莫大な富を得ており、後ろ盾には最適と考えたようです。
一方の大内義興も、細川政元に対抗するため、義稙を神輿にして上洛するのが良いと考えました。
あまり気持ちのいい関係ではないですが、利害が一致したんですね。
そのころ細川氏は、政元の後継者争いがキッカケで分裂中でした。
政元は、政治的にはヤリ手である一方、修験道にかなり深く傾倒していて、妻を娶らず養子を三人迎えていたのです。
二人までであれば、何かしらの事情で亡くなることを危惧したのだろう……とも思えますが、三人はさすがにちょっと……ねぇ。
跡継ぎが決まらなければ、当然家臣たちはそれぞれの思惑で割れていきます。
中には義稙を推す勢力もいました。
だから、なんで、あっちもこっちも分裂するんですかねぇ(´・ω・`)
復帰できるも求心力は著しく低下
「今こそ好機!」
これを伝え聞いた大内義興はすぐさま動きました。
「将軍様のお通りだ! 簒奪者の義澄とその取り巻きは京都を明け渡せ!」
そう迫り、半年ほどで足利義澄と細川澄元を追い出すことに成功します。
このとき細川政元の養子の一人・細川高国は足利義稙たちに協力。
その報償として管領の座と、細川氏の当主として認める旨を受けております。
かくして、どうにか京都を奪回し、将軍としての再スタートを切った義稙です。
しかし、こういった経緯があったものですから、やはり彼自身に権威や力はほとんどなく、その後は義興と高国が実権を握ることになりました。
「将軍は飾り物で、実質的なトップはその側近」という構図は、義政の時代から何も変わらなかったのです。
義稙は自分も腕が立つ方で、義澄からの刺客を返り討ちにしたという話があるほど。
相当悔しかったでしょう。
そして足利義稙は、義興や高国の影響を排除するため、近江甲賀へ隠遁という名の家出をします。
ここで義稙が大病を得たこともあって、一度は義興たちが譲歩し、「将軍の命令に従います」という誓書が出されました。
再度、帰京を果たすものの、そこに待っていたのは細川氏の争いでした。
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