佐原義連

佐原義連(画:菊池容斎)/wikipediaより引用

蘆名家

頼朝に認められ佐原義連(三浦一族)から始まった会津の雄・蘆名一族

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佐原義連と蘆名一族
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頼朝から領有を認められた佐原義連

そして時代が進み、中世に入る頃になると、奥羽の有力者たちは

鎌倉時代以来の血脈】

を誇りとするようになります。

むろん蘆名家も同様です。

彼等は、三浦義明の子・佐原十郎左衛門尉義連(佐原義連・さわらよしつら)が祖とされておりました。

「蘆名」という名の由来は、三浦氏の本拠地である三浦半島・蘆名からきたものだったのです。

例えば武田信玄の甲斐武田家も、そもそもは【常陸国那珂郡武田郷】の【武田】から来ているとされているように、地名が名字になるケースは少なくありません(姓は別で三浦氏の場合は「平氏」となります)。

佐原義連/wikipediaより引用

この義連が、文治5年(1189年)7月からの【奥州合戦】で活躍したため、会津の領有を源頼朝から認められたとされています。

 

『葦名系譜』

奥州合戦とは、源頼朝が平泉の奥州藤原氏を征服した戦いですね。

キッカケは源義経の身柄要請。

奥州藤原氏が先手を打って義経を殺し、鎌倉へ首を届けると、頼朝はこれで良しとせず藤原泰衡の追討を実行します。

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全国から武士を動員し、頼朝自ら出陣して多賀国府(宮城県)~平泉(岩手県)へと進むと、郡贄柵(にえのさく・秋田県大館市)に逃げた泰衡は家臣の河田次郎に殺され、ここに頼朝の奥羽制覇は完了します。

一連の合戦における佐原義連の働きについて、詳細は不明です。

後に会津を領有することは事実。

しかし実際に会津に足を踏み入れ、統治するまでは間が空きます。

『葦名系譜』といった史料から、その歩みをざっと見ていきましょう。

建武2年(1335年)蘆名盛員が息子の蘆名高盛と共に足利尊氏の軍に参加・片瀬川(藤沢市)にて戦死

康暦元年(1379年)蘆名直盛が会津に下向

至徳元年(1384年)黒川(のち若松と改称)を根拠と定める

応永7年(1400年)満盛は伊達政宗(9代目・独眼竜ではないほうの政宗)と結び、篠川御所に敵対する

応永23年(1416年)蘆名盛政が「上杉禅秀の乱」において、関東公方・足利持氏に対抗する。このころには「会津守護」として会津地方を統治する

天文7年(1538年)後奈良天皇宸筆『般若心経』が国別に下される。会津は蘆名盛舜宛

かように会津を統治してきた蘆名一族。

その全盛期は、蘆名盛舜の子・蘆名盛氏のときに迎え、彼が政宗と同時代に生きていれば容易く侵攻されることもなかったでしょう、とお伝えさせていただきました。

よろしければ以下の記事をご覧ください。

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蘆名の興亡について。

後日引き続き、考察していきたいと思います。

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文:小檜山青
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