大河ドラマ『麒麟がくる』でユースケ・サンタマリアさん演ずる朝倉義景が話題です。
飄々と明るい笑顔を浮かべながらも、決して善人ではない裏表のあるタイプ。
明智光秀が仕官(就職)を目指して朝倉家の屋敷へ足を運んだときはノンキに蹴鞠に興じていたり、光秀を京都へ使い走りさせたり、さらには足利義昭の上洛について煮え切らない態度を取り続けたり、何かとダメな雰囲気満載の方でした。
誰だってあの主君には仕えたくないよなぁ……。
なんて言ったら、朝倉家の家臣たちに対して失礼な話ですね。
史実の義景にも有能な家臣はおりました。
その代表的武将が山崎吉家(やまざきよしいえ)――。
『麒麟がくる』では俳優・榎木孝明(えのき たかあき)さんが演じる朝倉家の重臣です。
10月4日放送の第26話「三淵の奸計(かんけい)」では、何やら悪だくみに参加する一人でしたが、実際のところはどうだったのか。
早速見てまいりましょう!
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越前朝倉氏に代々仕えた山崎吉家のルーツ
吉家の生年は不明。
出自は、もともと山城国(京都府)にルーツをもつ越前山崎氏でした。
祖父の代から越前朝倉氏の重臣だったとも言われており、父・山崎長吉は永正3年(1506年)に勃発した【加賀の一向一揆】で敵軍を退却に追い込んだ功臣。
息子の吉家も、朝倉家の当主を補佐して、家を盛り立てることを宿命づけられていたと考えられます。
では、吉家が歴史上に姿を現したのはいつのことか?
享禄4年(1531年)に勃発した一揆衆の内紛【享禄の錯乱】でした。
吉家は、朝倉氏の中でも稀代の名将と称えられた朝倉宗滴の配下として動いていたとされます。
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それからしばらく史料に見えなくなり、弘治元年(1555年)の一向一揆攻めで再び登場するのですが、この戦で思わぬ事件が起こってしまいます。
すでに79歳を数えながら第一線でバリバリ活躍していた朝倉宗滴が戦場で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。
軍事・外交の担い手として
軍の総大将だった宗滴の死――あまりの痛手に落ち込んでいる暇はありません。
朝倉方としてはすぐにでも代わりの指揮官を用意せねばならない場面。
そこで白羽の矢が立ったのが吉家でした。
朝倉義景の従兄弟にあたる朝倉景隆らと共に戦場を取り仕切り、一揆勢と一進一退の攻防を繰り広げた末に和睦を成立させます。その後、朝倉軍は越前へと帰国しました。
以後、吉家は、大黒柱・宗滴が担っていた役割を引き継ぎ、弘治元年(1555年)の一揆が終わってからは、数年ほど平穏な時を過ごしました。
世の趨勢に変化が起きたのは永禄8年(1565年)のこと。
【永禄の変】が勃発したのです。
三好一派や松永久通らの大軍(1万とも)に包囲された13代将軍・足利義輝が暗殺され、戦火はにわかに拡大。
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加賀の一向一揆衆はもちろん、足利将軍家も絡んだ複雑な情勢下で、吉家は主に上杉謙信や武田信玄との外交を担当しておりました。
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かつては宗滴が担っていた役割を踏襲したものでしたが、謙信と示し合わせて一向一揆衆を挟み撃ちする計画をドタキャンされるなど、一筋縄ではいきませんでした。
義昭の上洛要請を無視し続ける義景
当時は情勢がめまぐるしく変わるので、吉家が無能だったというわけではありません。
永禄10年(1567年)には、一向一揆の征伐中に、家臣筋である堀江氏が主君の朝倉義景を裏切り、吉家と魚住景固に堀江氏の討伐命令が下ります。
結果は完勝……とはなりませんでした。
堀江氏と朝倉氏に縁の深かった本流院真孝という人物の仲介により、堀江景忠・景実親子の隠居で決着がつきます。
なんだかスッキリしない争いですが、これにて一息ついた朝倉義景は、次期将軍候補だった足利義昭を保護することにしました。
もともと義昭は、隣国の有力者・若狭武田氏に保護されていたのですが、同家の内紛によって行き場を失っていたというタイミングだったのです。
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足利義昭は、幕府におけるいわばジョーカー。
彼を有したことは、すなわち京都に上って将軍の補佐をして政治の中枢へ入り込む権利獲得を意味します。
一言でいえばチャンスですね。
しかし義景は、義昭による再三の上洛要請を黙殺し続けます。
理由としては、京都に根を張る三好党の勢力に勝てない――そんな戦略的判断があったと考えられていますが、悲願だった上洛を手伝わない姿に義昭は苛立ちを募らせます。
結果、義昭は時を同じくして台頭してきた織田信長のもとへ駈け込み、彼を擁した信長はそのまま上洛して天下の実権を握りました。
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