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【朝倉宗滴】
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浅井ー朝倉ラインを構築し、後の織田家にも影響
その後も他家への援軍やよその戦の調停などで活躍、宗滴は家中だけでなく他家や室町幕府からも一目置かれる存在となりました。
特に近江の六角家と浅井家の調停をしたことで、浅井家から深く信頼され、両家は固く結びつくことになっていきます。
これが後々、朝倉義景&浅井長政と織田信長の時代に強く影響してくるんですね。
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朝倉宗滴は、その後も三代に渡って朝倉家の当主を支え続けましたが、さすがに寄る年波には勝てません。
天文二十四年(1555年)7月、加賀一向一揆と戦っている最中、病に倒れてしまいました。
それでも一日で城三つ落として、ジーちゃん、ほんとに有能すぎ。
死期を悟った宗滴は、義景のいとこである景隆に軍を任せ、朝倉家の本拠である一乗谷城に帰還します。
そして病気療養に努めますが、さほど日を置かずに亡くなってしまいました。
「信長がどうなるか見てみたかった」という先見性
上記の通り、宗滴は事実上の朝倉家当主かつ有能すぎたため、彼の死後、朝倉家は見事に転がり落ちていきました。
宗滴自身も「自分が死んだら、誰に仕事を任せるべきか」という視点がなかったようですので、そこはマズかったですかね……。
にしても、なぜこれほどまでに有能な方が、後継に関する視点を見落としてしまうのでしょう。
忙しすぎるから?
それとも口出しすべきではない、とか考えたのですかね。
その一方で、宗滴は亡くなる直前に「できればあと三年生きて、織田信長がどうなるかを見てみたかった」と言っていたなんて話もあります。
宗滴最晩年の頃の信長というと、傅役の平手政秀に自害されたあたり。
つまり、まだまだ世間的評価は「尾張のうつけ」だった頃です。
その状態で信長に注目していたということは、宗滴が才覚ある人を見抜く目を持っていたことになるでしょう。
信長の舅(濃姫の父)である斎藤道三が「我が家の子供たちは信長の前に馬を繋ぐことになるだろう」と言ったというエピソードがあるように、「朝倉家に人材がいなさすぎて諦めた」なんてことはない……ハズです。
もしそうだったとしても、最低限の引き継ぎはすべきですしね。
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【桶狭間の戦い】が永禄三年(1560年)ですから、このときまで宗滴が生きていたとしたら80代。
不可能ではない年齢です。
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その場合、信長は浅井家にお市の方を嫁がせるのと前後して、宗滴との交渉を進め、浅井・朝倉両家を傘下に収め、史実より少し早く上杉家とぶつかっていたかもしれません。
IF続きになるのでこの辺で終わりにしますが、
【信長with道三】
ならぬ
【信長with宗滴】
ってのも、ワクワクしますね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
朝倉宗滴/wikipedia