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【今井宗久】
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紹鴎息子との裁判を有利にするため接近?
三好政権との結びつきが強かった宗久。
やがて東から織田信長が上洛するという報を聞きつけると、にわかに事態が動き始めます。
三好党は信長と敵対する構えを見せていましたが、宗久は親しくしていた久秀が即時降伏の意向を示したこともあり、追随する形で信長に接近するのです。
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そのアプローチの仕方が思い切ったものでした。
松島由来の茶器に加え、なんと裁判中であるはずの紹鴎遺産『茄子茶入』を献上したのです。
「裁判中の茶器を渡して、大丈夫なのか? もし敗訴したらどうなる?」
そう思われる場面ですが、この「裁判中の茶器を譲る」ことこそが宗久の策略だったと目されています。
当時の宗久と信長のヤリトリを妄想で再現してみますと……(本来は「信長様」と諱で呼ぶことはありませんが、分かりやすさ重視で進めますと……)。
宗久「信長様、お近づきのしるしにこの品をお収めください!」
信長「うむ、殊勝なことよ。これはどういった茶器なのか?」
宗久「我が師であり、我が義父でもある紹鴎遺産の『茄子茶入』でございます。しかし、こちらは現在紹鴎の息子と裁判になっている品でして…」
信長「そんな代物をこのワシに?」
宗久「実は私に考えがございまして。信長様のお力で私を裁判に勝たせてくだされば、そちらは問題なく差し上げることができます。お互いに得のある話ではないでしょうか?」
信長「ほほぅ」
とまぁ、信長に裁判でのとりなしを願ったのではないかと考えられています。
実際、信長が裁定した裁判で宗久が全面勝訴を勝ち取っているのです。
そもそも裁判を有利に運ぶため信長に接近したという側面もあったとされ、戦国期商人のしたたかさが浮かび上がってくる、興味深いエピソードであります。
信長から事実上の堺支配を任される
かくして信長への急接近を実現させた宗久。
自治都市であった堺から、信長が「2万貫の軍用金」を調達しようとした際、反発して抗戦を訴えた堺の保守派を説得、戦争を回避しました。
この功によって信長による評価は一段と高まり、摂津国住吉の地にて2200石の領地を与えられ、さらには山城国・摂津国の倉入地と、堺の代官にも命じられました。
事実上の堺支配者として信長に認められたのです。
いわば政商として都市を牛耳る存在になったわけですが、信長から与えられた特権はこれだけにとどまりません。
宗久の持ち船には淀川沿いの関銭が免除され、茶人としても茶頭(茶人たちのトップ)に任命、政治面でも私人としても、信長と強い結びつきを持つようになります。
元亀元年(1570年)には、生野銀山に目を付けた信長によって但馬国へ派遣され、この地域の経営まで任されていたのでは?という説があるほど。
現代で言えば財閥のトップが、財務大臣と文部科学大臣を任命されていたようなものかもしれません。
宗久は堺町衆と信長をつなぐパイプ役として大きな成果を挙げ、天正3年(1575年)ごろから、新たに堺の代官に就任したと思われる松井友閑にも一目置かれていたと言います。
もちろん本業も絶好調。
需要が激増した鉄砲生産で巨万の富を築き、茶人としては名物『開山の蓋置』も信長に進上するなどして、信長が訪問した際には茶会を主催して積極的に彼の関心を引きました。
堺トップの商人かつトップの茶人――宗久は単なる「茶坊主」ではない、織田家の重要人物としてのし上がっていたのでした。
しかし……。
我が世の春を謳歌する宗久に、衝撃の事件が訪れます。
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