長宗我部信親

長宗我部信親(落合芳幾・作)/wikipediaより引用

長宗我部家

戸次川の戦い1587年|仙石秀久のシャレにならん采配ミスで長宗我部信親が戦死

2024/12/11

天正十四年(1587年)12月12日、戸次川の戦いが勃発しました。

そこで命を落としてしまったのが、四国を統一した長宗我部元親の長男・信親。

母親が正室だったので、特に問題なく家督を継ぐはずだったのに……なぜこんなことになったのか。

長宗我部信親(落合芳幾)/wikipediaより引用

ぶっちゃけて言えばセンゴクこと仙石秀久のせいなんですが、そこは後述するとして信親の生涯を見てみましょう。

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長宗我部信親 信長から「信」の字貰う

長宗我部信親は永禄八年(1565年)生まれ。

「信」の字は当時の長宗我部家の外交関係から来ています。

織田信長へ近づく際、「ウチの息子が今度元服するんですけど、御運にあやからせたいんで一字いただけませんかね?」(超訳)とお願いしてもらったものでした。

普通こういうとき通字(先祖代々使っている字)は選ばないものなんですが、そこで「長」じゃなく「信」をあっさりあげちゃったNOBUさんマジ風雲児(40代)。

織田信長/wikipediaより引用

そんなわけで長宗我部家の通字「親」と合わせて「信親」と名乗るようになった彼は、元々頭がよく下々の者にも思いやりのある優しい若様だったそうで、父親にとっても自慢の息子です。

長宗我部家を描いた司馬遼太郎先生の『夏草の賦(→amazon)』でも、内外共にあらゆる意味でかなりのイケメンとして描かれていましたね。

ちょっとお坊ちゃんっぽくなっていましたけども、まぁそのくらいは欠点のけの字にもならないでしょう。

 


島津とは無理に戦わなくてもいいのに

長宗我部家は、はるか昔に中国から渡ってきた家の末裔だといわれています。

信親にはその血が濃く現れたのでしょうか。

六尺一寸(約184cm)の超高身長かつ色白だったという記録が残っています。ここだけ見ると三国志に出てきそうな感じですね。

上記の通り戦国武将としてはかなり若い世代のため、彼が成長した頃には既に豊臣秀吉へ天下が流れておりました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

それまで父の元親と共に四国統一に励んでいた身としてはさぞ悔しかったことでしょう。

一度負けてからは不穏な動きをすることもなく、秀吉の傘下で忠実に働きます。

しかし、それはたった一年後の九州征伐で終わりを告げることになりました。

戦が無くなったからではなく、彼の人生そのものが終焉を迎えてしまったからです。

後々九州征伐と呼ばれることになる島津家相手の一連の戦の緒戦。

それが【戸次川の戦い】でした。

この悲劇は秀吉と現地の司令官だったセンゴクこと仙石秀久の認識の違いにより起こったものです。

仙石秀久/Wikipediaより引用

一体どんな戦いだったのか?

事前に島津家の手強さをいろいろ聞いていた秀吉は、まず仙石や長宗我部ら四国の連中を近いから先行させておき「無理に戦わなくていいから」(意訳)という指示を出していました。

ところが、です。

何を焦ったのか。秀久は「何としても功績を上げなくては!」と不要なやる気を出してしまい、無謀にも程がある攻め方を強行します。

具体的には「敵の目の前で川を素早く渡って一気にぶっ潰そうぜ!」(超訳)というものでした。

 

「俺は明日討死する」

柴田勝家が上杉謙信にフルボッコにされた【手取川の戦い】。

大友宗麟・大友義統親子が島津四兄弟の恐ろしさをイヤというほど味わされた【耳川の戦い】。

そして【背水の陣】という言葉がある通り、そもそも水の側で戦うときには細心の注意を払い、状況を鑑みてから合戦に臨むのが基礎中の基礎です。

もちろん長宗我部元親も信親も反対はしたのですが、既に人の話を聞ける状態ではなかった秀久はこれを決定してしまいます。

これが前日12月11日のこと。

その夜、信親は家臣に「俺は明日討死する」と覚悟を漏らしていたとか。

すでに中央へ組み込まれた後、しかも父の元親が臣従している秀吉の代理に等しい人間の決定ですから、賢明な信親には食い下がることができなかったのかもしれません。

「憎まれっ子世にはばかる」といわれますが、その逆に頭や性格のいい人はいつの時代も犠牲になるのですね……。

 

跡取りを失い、元親は茫然自失

そしていよいよ翌12日――。

長宗我部には結果の見えていたような悲壮な合戦が始まります。

これだけ優秀な若様でしたから、もちろん最後の最後まで信親に付き従った家臣も多くいました。

信親自身も勇敢に戦うのです。

しかし、そもそも多勢に無勢なシチュエーションの上に、相手は強兵で知られる薩摩隼人の皆さんであります。

しかも指揮官は、島津四兄弟の中でも戦闘に長けた名将・島津家久でした。

豊臣軍は、歴史上稀に見るフルボッコにされ、耐え切れずに多くが討死してしまいます。

こうして長宗我部家は有能な跡取りと次期家臣団になるはずだった多くの若者を一度に失い、元親はあまりのことに茫然自失状態。

長宗我部元親/wikipediaより引用

大名としての寿命を縮めていくことになり、後に、大坂の陣にて長宗我部盛親が戦死を遂げるのはよく知られた話かもしれません。

漫画『センゴク』を読んでいる限り、あの憎めないダンゴがなぜ……というか、こればかりは悔やんでも仕方のないことかもしれません。

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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
山本大/小和田哲男『戦国大名系譜人名事典 西国編(新人物往来社)』(→amazon
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon
長宗我部信親/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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