絵・小久ヒロ

皇室・公家

戦国関白・近衛前久は信長や謙信とマブダチ! 本能寺後に詠んだ南無阿弥陀仏

日本史で「生き残りをかけた戦い」というと武家の話がほとんどです。

しかし、公家にも公家の戦いがあります。

いかに名誉を保ちつつ、武力を使わず(使えず)に家を守るか――。

今回はその中でも「身を粉にした」という表現が似合いそうな、とある公家のお話です。

慶長十七年(1612年)5月8日は、公家の近衛前久(このえ さきひさ)が亡くなった日です。

戦国時代の公家としてはちょくちょく名前が出てくるので、割と知名度が高いでしょうか。

同じく骨太な貴族・近衛信尹(のぶただ)のトーチャンでもあります。

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謙信の進出を助けるため関東へ

近衛前久は、藤原北家(藤原道長の家)の流れをくむ近衛家の長男として生まれました。

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そのため18歳で左大臣・関白・藤氏長者(藤原氏のリーダー)になり、19歳で従一位になるという超速出世をしています。

しかし、彼の面白いところは出世のスピードではありません。

関白という臣下でトップの位置にありながら、自ら北陸や関東にまで行っているなどのフットワークの軽さと、足利将軍から名前にもらった「晴」の字をあっさり捨てている度胸の良さです。

朝廷や家臣の胃痛が思いやられますが、こういう人は面白いですよね。

北陸や関東に出向いたのは、上杉謙信の関東進出を助けるためでした。そうすることで東国が定まり、その後に都の守護をしてもらうつもりだったのでしょう。

イラスト/富永商太

謙信との個人的な親交も深め、謙信が地元に帰っている間には関東の前線に残るなど、公家らしからぬほどの度胸を見せています。

そういうところが武家にも信頼されたのかもしれません。

もし策略や演技だったら、ソレはソレで相当な度胸ですけど、ともかく前久はこの頃、花押を武家様式に変えているので、素で勝負に出たものと思われます。

しかし、謙信の関東平定はなかなか進まず、さしもの前久も「ここにずっといてもいいものだろうか」と考え始めました。

 

義輝が殺され、その後、義昭を連れてきたのが……

前久は思い切って京に戻りました。

出迎えたのが松永久秀や三好三人衆たちです。

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ちょうどそのころ【永禄の変足利義輝殺害事件)】が起きており、協力を求められました。

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時勢上、逆らうチカラもなく、三好勢の味方についた前久。

この辺りの政治情勢は目まぐるしく立場が入れ替わり、非常にややこしのですが、とりあえず第14代足利将軍に就任した足利義栄は、結局、三好勢と松永勢の争いなどがあって京都へ入れません。

そうこうするうちに永禄11年(1568年)。

今度は織田信長が義輝の弟・足利義昭を連れて京都へやってきてしまいました。

義昭は、細川藤孝三淵藤英、あるいは和田惟政など幕府勢に助けられ、信長を頼って上京したのです。

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本願寺を出て信長へ接近

義昭の望みはシンプル。15代将軍になることです。

そこでまず「前久は兄上の殺害に一枚噛んでいるに違いない!!」(意訳)として、前久を朝廷から追い出してしまいました。

前久は関白の座も奪われてしまい、仕方なく縁戚の赤井直正本願寺に身を寄せます。

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信長とは対立ポジションですね。

しかし、前久は信長と喧嘩するつもりはありませんでした。

義昭と信長の仲が険悪になり、信長を包囲する動きが見えてきた頃、本願寺を出ています。

この辺はさすがの慧眼といったところでしょうか。信長とは歳も近く、共に鷹狩りを趣味としていたことで公私両面で親しくなることができました。

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互いの獲物を自慢しあったりもしていたそうで。何それかわいい。
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