日本史で「生き残りをかけた戦い」というと武家の話がほとんどです。
しかし、公家にも公家の戦いがあります。
いかに名誉を保ちつつ、武力を使わず(使えず)に家を守るか――。
そんな様子が大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれたのが近衛前久(このえ さきひさ)。
本郷奏多さんが演じられ、見た目は色白かつ線が細いようでいて芯はシッカリしている。
それもそのはず、この前久、史実でも積極的に戦国武将と関わりを持ち、時代の荒波を生き抜きました。
戦国時代の公家としてはちょくちょく名前が出てくるので、すでにご存知の方も多いかもしれません。
では、いったい本人はどんな人物だったのか。
慶長17年(1612年)5月8日に亡くなった近衛前久の生涯を振り返ってみましょう。
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謙信の進出を助けるため関東へ
近衛前久は、藤原北家(藤原道長等を輩出)の流れをくむ近衛家の長男として生まれました。
そのため18歳で左大臣・関白・藤氏長者(藤原氏のリーダー)になり、19歳で従一位になるという超速出世をしています。
しかし、彼の面白いところは出世のスピードではありません。
関白という臣下でトップの位置にありながら、自ら北陸や関東にまで行っているなどのフットワークの軽さと、足利将軍から名前にもらった「晴」の字をあっさり捨てている度胸の良さです。
朝廷や家臣の胃痛が思いやられますが、こういう人は現代の我々にとっては面白い存在ですよね。
名門らしからぬ切り替えの早さは前久の大きな長所でもあり、後に頭痛の種にもなりました。
北陸や関東に出向いたのは、上杉謙信の関東進出を助けるためでした。
そうすることで東国が定まり、その後に都の守護をしてもらうつもりだったのでしょう。
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ちなみに、最初は謙信が永禄二年(1559年)に上洛した際の帰路に同行するつもりでした。
しかしこのときは正親町天皇の即位式が翌年正月に控えており、
「現役の関白ともあろう人が、即位式をすっぽかして東へ下るなんてとんでもない!」
と、当時の将軍・足利義輝などに咎められて延期しています。まあ当然ですね。
前久は切り替えが早すぎて、他人への影響や世間の評判への配慮が二の次・三の次になりがちなところがありました。
その対象に天皇まで含まれるのがまたスゴイところです。
※なお、足利義輝の正室は前久の姉妹だったため、彼らは義兄弟にあたります
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越後にずっと居てもいいものか……
即位式が終わった後、留守中のあれこれに関する事務処理等があり、前久が越後へ出発したのは永禄三年(1560年)9月のことでした。
そこからおよそ二ヶ月後、11月に越後へ到着しています。
謙信は当時関東へ出征中で、留守を預かっていた上杉家の家臣たちが前久をもてなしていたようです。
この東下にあたり、前久は謙信と血判状を交わすほど気合いを入れています。
謙信との個人的な親交も深め、謙信が地元に帰っている間には関東の前線に残るなど、公家らしからぬほどの度胸を見せました。
そういうところが武家にも信頼されたのかもしれません。
前久の滞在先は厩橋城や古河城などでしたが、由良氏や太田氏など、上杉方についていた関東の大名が前久の世話をしています。
もし策略や演技だったら、ソレはソレで相当な度胸ですけど、ともかく前久はこの頃、花押を武家様式に変えているので、素で勝負に出たものと思われます。
しかし、謙信の関東平定はなかなか進まず、さしもの前久も「ここにずっといてもいいものだろうか」と考え始めました。
当時の常識的には致し方ないことなのですが、謙信は生涯
「自分の本拠は春日山城であり、長期間離れることはできない」
というスタンスを貫いています。
地元をおろそかにしないという美談でもありますが、関東平定という大きな目標を掲げていることを考えると、現実的ではありません。
ただでさえ距離や山越えという物理的な障害がある上、冬期は雪で身動きしにくくなるのですから。
当時の交通事情で、わざわざ大幅な時間のロスを何度もするというのは、長期的にかなりのマイナス要素になってきます。
これが後北条氏など、謙信と敵対する遠隔地の大名らから見ると
「適当に相手をしておけば、謙信は勝手に帰っていく」
となるわけです。
実際、永禄四年(1561年)から翌年にかけて謙信が10万ともいわれる大軍を率いて小田原城を包囲し、大きな戦闘をせずに引き揚げた後、後北条氏は兵を挙げて北関東へ進みました。
呼応する関東の大名もおり、謙信が効果的だと思っていたであろう”10万の兵を動員する力”や”謙信が現役関白を味方につけている”という点は、全く通用しなかったことになります。
これは謙信の性格や、上杉氏が藤原氏の流れをくむこと・謙信の実家である長尾氏がその家老であったことなどが影響していると思われます。
自分の家が公家の血や権威を重んじているから、相手もそれに恐れ入るだろう……というわけです。
しかし、関東の大名にはそういった権威が通じませんでした。
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