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【ルイス・フロイス】
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頼りにした将軍・義輝が亡くなってしまい
そんなこんなでついに来日したフロイス。
直後から他の宣教師にはなかなか見られない行動に出ています。なんと、自ら日本語を勉強し始めたのです。
「布教するんだから当たり前だろ」
そう思われる方も多いでしょうが、実は1579年の時点でも、イエズス会士の中で「日本語を一定以上使いこなせる」人はたった5人しかいませんでした。
フロイスが来日した時点では、一人か二人いればいいほうだったでしょう。
フロイスは語学が得意だったとのことなので、ただ単純に興味を惹かれて日本語を学び始めた可能性もありますが、これは注目すべき点のような気がします。
「パン」や「カステラ」など日本語に浸透したポルトガル語があるように、当時フロイスも「日本語はポルトガル語に少し似ている」と思ったのかもしれません。
その熱意に惹かれてか。
フロイスは来日の翌々年に京都に入り、他の宣教師や日本人の修道士とともに布教活動を始めます。
ときの将軍・足利義輝は比較的キリスト教に寛容でした。
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ゆえに幕府のお膝元で堂々と布教をすることができたのです。
しかし、その義輝が【永禄の変】で暗殺されてしまったため、フロイスらの立場も怪しくなってきました。
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「信長は地球が丸いことを理解した」
堺へ避難し、じっと再布教の機を待つことにしたフロイス。
永禄の変から四年が経過し、新しく将軍になった足利義昭と共に京へやってきた信長に会う機会を得て、そこから宣教師生活が一変します。
会見場所は二条城の建築現場でした。
物々しい対面というよりは「信長様、南蛮の宣教師が参っておりますが(ついでに)お会いになりますか?」というような、その場の流れによるものだったのでしょうね。
信長は二条城の普請現場を自ら監督していたそうですし。
さらに信長は新しもの好きかつ、理路整然とした話を好みますから、フロイスの話にも大いに興味を惹かれたと思われます。
記録の中にも、
「信長は地球が丸いことを理解した」
「目覚まし時計を献上したが『壊れたら修理できなさそうだから返す』と言われた」(意訳)
といった話があります。
おそらく信長とフロイスは利害関係以外にも、ウマが合ったのでしょう。
『日本史』の中でも、信長は非常に好意的に書かれています。
「とあるキリシタンの家臣が愛人と同居していたので、信長は『キリスト教の教えに反してるんじゃないのか』と咎めた。後日、再び愛人と住んでいることがわかったので、信長はその家臣をクビにした」(意訳)
おそらくこうした信長の対応が、キリスト教に合う考え方だと感じていたのかもしれません。
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信長は部下の風紀には割と厳しい一面もあり「二条城建築中に人夫が女性に絡んでいたので、信長がキレて首をはねた」(意訳)なんて話もあります。
これがもしフロイスに会ったのと同じ頃の話でしたら、そりゃフロイスとしては「不埒な輩に厳しいこの人は、きっとキリスト教を保護してくれるに違いない」って思いますよね。
フロイスは『日本史』の中で、豊臣秀吉については割と酷評しているのですが、キリスト教への理解度の他に、女性に対する態度が違ったからなのかもしれません。
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