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【ルイス・フロイス】
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バテレン追放令で肩身の狭い思いをするも……
こうして信長と知遇を得て、布教や住まいを保証されたフロイス。
その後は諸国で日本の記録を取りながら、後輩のイエズス会士と信長の折衝役を務めました。
一日10時間も書いていたこともあるそうですから、フロイスはこの仕事や日本が心底好きだったんでしょうね。
この記録が後世に『日本史』としてまとめられるのですけれども、当時の地名や人名がローマ字で書かれているため、他の記録には書かれていないような読み方がわかるようになったものもあります。
しかし信長が【本能寺の変】に斃れ、秀吉の世になると、伴天連追放令によってフロイスを含めた宣教師たちの肩身は一気に狭くなってしまいます。
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それでも日本を去り難かったのか、長崎で記録と布教を継続。
後に聚楽第に行ったことがありますし、一時はマカオに行ったのに再来日しているくらいなので、既に日本に骨を埋める気でいたのかもしれません。
豊臣秀吉もフロイスらについては、それ以上のことをしようとはしていません。
そして二十六聖人の殉教(秀吉によるキリシタン処刑)の記録を書いた後、前述の通りフロイスは長崎で65歳の生涯に幕を閉じました。
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長崎あるいは熊本あたりに墓がある!?
どうしたことか。彼が長崎のどこに埋葬されたのかは不明です。
これほどの功績がある人なのに、何だかしっくりこないですよね。
亡くなった場所が長崎であり、長崎のどこかにあるだろうとはいわれているのですが。
もし秀吉がキリスト教憎さで「フロイスの墓を作ることはまかりならん!!」と言っていたらいったで、それなりの記録が残るでしょうし……それ以前にとっ捕まって獄死していた可能性だって高いでしょう。
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もう一つ、「フロイスの遺稿はマカオ司教座に送られた」という点も不思議です。
どうせなら司教座も何もない異教の地である日本より、遺稿とともにフロイスの棺もマカオに送って、そこで埋葬するほうがキリスト教的に良さそうな感じがしませんか?
熊本県天草市五和町御領にコスメ・デ・トーレスのものらしきお墓があるとのことなので、断定はできませんけれども。
謎が謎を呼び続けますが、もし見つかったとしたら確実に一大ニュースになりますね。
長崎近辺で一山当てたい方は、フロイスのお墓を探してみてもいいかもしれません。徳川埋蔵金を探すよりは可能性高そうです。
なお、ルイス・フロイスはじめ、日本に関わる宣教師のことを知るには、世界同時配信された『MAGI(マギ)』がおすすめなのですが……残念ながら現在日本ではAmazonプライムで視聴できません(→amazon)。
この『MAGI』という作品は、ヨーロッパに送られた天正遣欧少年使節という日本人少年たちの目を通して描かれます。
フロイスの出番は少ないものの、ヴァリニャーノなどをはじめ、多くの関係者が登場しますので、非常に親しみやすいのですが……。
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amazonプライムへ復活の日を待ちましょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
川崎桃太『フロイスの見た戦国日本』(→amazon)
ルイス・フロイス/バラエティ・アートワークス『フロイスの日本史 (まんがで読破 MD108)(→amazon)』
ルイス・フロイス/wikipedia
フロイス日本史/wikipedia