重商主義の田沼意次時代を迎え、技術革新も重なり、江戸時代後期の浮世絵は競争の激しい世界となりました。
2025年大河ドラマ『べらぼう』は、そんな浮世絵業界の攻防も描かれます。
メインキャストには、蔦屋重三郎が大々的にプロデュースした絵師・喜多川歌麿が登場。
こうした版元と絵師の関係は、このコンビだけではありません。
例えば蔦屋のライバルである西村屋与八は、喜多川歌麿のライバルとなる【美人画】の浮世絵師を世に送り出します。
その名も鳥文斎栄之(ちょぶうんさい えいし)――。
実は歌麿に勝るとも劣らぬ人気であり、数多の人気【美人画】を世に送り出した、栄之の事績と生涯を振り返ってみましょう。
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知る人ぞ知る絵師・鳥文斎栄之
「六大浮世絵師」の一人に数えられ、浮世絵師の代表格である喜多川歌麿。
そのライバルならば、もっと世に知られていてもよいのに、そうではない――鳥文斎栄之は、様々な条件が重なって世に埋もれてきました。
彼の初となる大規模展が開催されたのは、2024年1月6日から3月3日にかけての「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」です。
会場となった千葉市美術館は決して規模が大きいとはいえず、そもそも東京でもない。
日本での知名度の低さを物語っているとも言えますが、主催者側のモチベーションは高く、展示品の中にはボストン美術館や大英博物館からの里帰り品も含まれていました。
つまり栄之は、海外のコレクターを魅了し、収集されていた――美しい【美人画】は、国境を超えて愛されていたのですね。
それなのに、なぜ歌麿とはこうも知名度で差をつけられてしまったのか。
大きな要因として流通量の差が挙げられます。
栄之は、版元と本人の方針もあり、高級路線で売っていたため、必然的に流通量は少なくなり、特に歌麿と比較するとその差は顕著。
印刷による大量生産を前提とした【錦絵】ではなく、直に描く【肉筆画】の比率が高く、限られた層にしか所有されていなかったのです。
そんな商業的な理由から、後世において知名度では差をつけられてしまった栄之。
歌麿と比して技量が劣るとか、単純なことではありません。
彼らの絵を世に送り出していた版元、蔦屋と西村屋の姿勢を表しているともいえる。
だからこそ2025年大河『べらぼう』の放映は、ある意味、チャンスと言えるでしょう。
ついに鳥文斎栄之(ちょぶうんさい えいし)という偉大な絵師が世に知られる機会がやってきたのです。
同世代に生まれた美人画の担い手たち
徳川家康が江戸に幕府を開くと、それに続く徳川秀忠や徳川家光は、この街を大きくしてゆきました。
街を一から作るとなれば、男性の労働力は必須。
若く、腕力に富む若者を集めた結果、江戸は男女比が歪な、女性が少ない都市となってしまいます。
そんな男たちの欲求を解消するため、幕府公認の吉原ができ、
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女性の数が少ないゆえの機会的同性愛も盛んになりました。
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江戸の男女比の歪みは、時代が下るにつれて緩やかに改善されてはゆきます。
しかし、完全に解消されるわけでもなく、妻を持てない、吉原なんて高嶺の花、最下級の女郎を買うか……といった男性たちの発散として、もう一つの選択肢が出てきました。
絵です。
現代では「二次元」という呼び方のほうがわかりやすいでしょうか。
印刷技術の向上により発行部数の増加が可能となり、肉筆画以外も普及。
【錦絵】という多色刷り技術が確立すると、リアリティのある美女が登場しました。
【美人画】の登場です。
このジャンルを大々的に広めたのが、鈴木春信(1725年?〜1770年)とされ、彼は一時代を築き上げました。
いわば【美人画】の巨匠とも言える春信から少し遅れて生まれたのが、ポスト春信ともいえる鳥居清長であり、宝暦2年(1752年)に生誕しています。
さらに同ジャンルで最大の巨匠ともされる喜多川歌麿は、没年と享年から逆算して1753年(宝暦3年)頃の生まれと推測され、鳥文斎栄之は、それよりやや遅れた宝暦6年(1756年)。
つまり三人とも宝暦年間生まれであり、まとめるとこうなります。
鈴木春信(1725年?〜1770年)
鳥居清長(1752年~1815年)
喜多川歌麿(1753年?~1806年)
鳥文斎栄之(1756年~1829年)
生まれは近い。されど育ちはそれぞれ異なる。
清長は、鳥居派の一人として腕を磨き、晩年は流派興隆のために尽くしました。
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歌麿は若い頃の事績はあまり残されておらず、蔦屋重三郎の売り出しにより、華々しくデビューを遂げ、スター街道を駆け上がりました。
そして栄之は、500石取の旗本であり、歴とした武士でした。
武士でありながら浮世絵、しかも【美人画】を手がけるという意外性こそ、売り出しポイントといえます。
では実際にどうだったのか?
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