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【天正遣欧少年使節】
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帰国したらキリシタンには逆風が吹いていた
かくして往復8年もの長旅を乗り越えた天正遣欧少年使節の少年たち。
持ち帰ったものに対する実りは、とてもその苦労やリスクに見合うとはいえないものでした。
帰国時には大友宗麟は亡くなっていましたし、秀吉によってバテレン追放令が出され、世間的にキリスト教が歓迎されなくなっていたからです。
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もし信長が存命であれば、もう少し共存の道もあったかもしれませんが……。
帰国の翌年、豊臣秀吉の前で西洋音楽を演奏したことがあるそうなので、文化だけは歓迎された時期もあったようです。
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4人の使節たちは、秀吉から「ワシに仕えないか」と誘われたものの、既に禁教の流れが生まれてきたこともあってか、主席正使で最年長の伊東マンショは、信仰を保って司祭に任じられるまでになりました。
とはいえ過激なタイプではなかったらしく、長崎のコレジオ(キリスト教の聖職者になるための学校)の先生として、静かに暮らし、1612年、病気で亡くなりました。
副使だった中浦ジュリアンと原マルティノは、伊東よりも世渡りがうまくはなかったようです。
この二人も司祭になったところまでは伊藤と同じですが、中浦は江戸時代になって弾圧が激しくなってからも九州各地で教えを説いていました。
しかし幕府によって捕らえられ、穴吊るしの刑という過酷な処刑をされています。
原は伊東と中浦の中間くらいの感じですね。
語学や交渉の才能があったことから、布教の他に洋書の翻訳・出版などにも携わっていたとか。
江戸幕府がキリシタン追放令を出すと、大人しく従ってマカオに向かい、日本語の本を出版したりして生計を立てていたといいます。
まさに「芸は身を助け」たんですね。そのままマカオで亡くなり、恩師ヴァリニャーノと同じ場所に葬られました。
奴隷の姿を見て疑問をいだいた千々石ミゲルは……
天正遣欧少年使節の少年4人の中で唯一キリスト教を捨てたのが、もう一人の正使だった千々石ミゲルです。
彼はヨーロッパ訪問時に現地でこき使われる奴隷を見て、キリスト教への疑問を抱いたといわれています。
その違和感が帰国後も消えず、やがてキリスト教から離れる道を選びました。
正式にイエズス会から退会した後、江戸時代になってから親戚の大村喜前(よしあき)に一藩士として仕えています。
なかなか観察眼のある人物だったようで、喜前に対して「キリスト教は異国を侵略するために使われているから、離れたほうがいい」と進言したそうです。\大正解/
しかし、棄教したことで熱心なキリシタンからは裏切り者とみなされ、仏教徒からはうさんくさい目で見られ、徐々に難しい立場に追い込まれてしまいました。
そのため、晩年についてはハッキリしていません。お墓が大村藩の領内にあるので、喜前の元を離れはしたものの、領内で隠棲したと考えられています。
信仰を守るかどうかは人それぞれですし、どれが正解ともいえません。
ただ「同年代の少年たちがほぼ同時に同じものを見て、その後4人とも全く違う道をたどった」というのは、実に興味深い点ですね。
しかもキリスト教という非常に影響力の強いものを見て……ですし。
時勢や法令の影響もあるとはいえ、宣教師たちの狙いがほぼ外れたというのも面白いものです。
なお、彼らが実際にヨーロッパへ渡ったときの物語が『MAGI』というドラマで再現されております。
戦国時代の日本史と世界史の交わる興味深い話ですが、残念ながらアマゾンプライムビデオでは現在、日本は視聴不可能なエリアになってしまっています。
放送が再開される日を待ちたいと思います。
【MAGI~アマゾンプライムビデオで放映中(→amazon)】
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
天正遣欧少年使節/wikipedia