義姫

絵・小久ヒロ

伊達家 最上家

政宗の母で義光の妹「義姫」は優秀なネゴシエーター 毒殺話はウソ

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家族の危機にゴッドマザーが立ち上がる!

そんなややこしい状況下、義姫が立ち上がった状況が各種書状からわかります。

前述の通り、ここでフィクションにあるような「輿にのって陣に居座る頑固な母、これには政宗も苦笑い」という印象は捨てて頂きたいと思います。

まず状況として、輿で車中泊して八十日間も屋外に居座れるとは思えません。寝泊まりが出来る小屋があり、侍女たちや護衛が随行した状況と見てよいでしょう。

そうです。この交渉では何と義姫は八十日、三ヶ月近くも粘ったのです。

さらに義姫は政宗に無断で交渉したわけではありません。

片倉小十郎景綱と書状のやりとりをしており、政宗の意向は景綱経由で義姫に伝わっていました。

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当時から伊達成実のように「義姫はどうせ最上の便宜を図っているのではないか」と思う者もいましたが、義姫は書状を読む限りでは伊達側の意向を最上側に承諾させるよう動いていたと思われます。

また、当時義姫の侍女の中には、景綱の姉にあたる喜多(少納言)がいました。

喜多は政宗を饗応に招く等、信頼の厚い女性でした。

この大崎合戦においても喜多は義姫に随行していたようで、片倉姉弟とともに義姫との間に深い関係があったのです。

ただし成実の考えが邪推であるとは言い切れない部分もあります。

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それというのも、最上義光の書状を見ると「義姫が伊達側の書状を義光に見せていた」という記述があるからです。これからも是非見せてくれたらありがたい、と義光は義姫に頼みこんでいます。

義姫はこのように、双方と情報のやりとりをし、またある程度彼女自身の裁量で交渉を行うこともできていたのです。

それだけ信頼があつかったといえます。

聡明で、粘り強く、交渉力に長け、自分の意志をはっきりと通し、周囲から信頼される、しっかりした女性像がそこにはあります。

天正十六年七月、義姫の奮闘の甲斐もあって、両者の和睦は成立しました。

前述の通り、時は豊臣秀吉の天下統一へ向けて時を刻んでいます。

最上義光は、書状では「妹がごねるから和睦してやった」と言い訳がましいのですが、本音は早めに切り上げることができて助かった、というところでしょう。

政宗もまた、ややこしい問題の片が付き、宿敵である蘆名攻めに集中できたので、大いに助かったことでしょう。

 

大人になってからママからお小遣いなんて

このように我が子と兄を助けるしっかり者の義姫ですが、思わぬ悲劇に巻き込まれます。

天正18年(1590)、次男の小次郎を失います。

くどいようですが、この政宗の小田原参陣前夜に何かがあったことは確かですが、毒殺事件そのものは捏造とみなしてよいものです。

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フィクションですと義姫はこのころ実家に出奔します。

が、史実では伊達家の居城となった岩出山城に留まります。

上洛した政宗は、しばしば母に書状と贈り物を届けました。

朝鮮出兵時にこの母子がかわした書状のやりとりは有名です。母は我が子に和歌とおこづかいを送り、子は母に朝鮮で探し回った珍しい貴重な生地を送りました。

さらに政宗は、手紙の中で築城の様子も報告しています。

佐藤憲一氏『伊達政宗の手紙』に詳細が記載されておりますので、気になる方は是非お読みください。

『伊達政宗の手紙 (新潮選書)』(→amazon

この母への手紙を読むと、義姫と政宗の仲が悪かったなんてとんでもないということがわかるかと思います。

毒殺事件があった直後に、こんな手紙のやりとりがあるだろうか、誰しも疑問に思うはずです。

現代におきかえてみてください。

20代の青年が海外出張時に母からおこづかいを送金してもらい、「同僚の誰にも負けないプレゼンができたよ」と報告し、何軒もブランドショップを周り最高級の品を見つけ母親に贈っていたらどう思いますか。

親思い、でとどまりますか。

「ちょっと引くレベルのマザコン……」となっても仕方なくはありませんか。

正直なところ筆者は、お土産探しのくだりで政宗ってどんだけ母親が好きなのだ……と、ちょっと引くというか驚くというか、複雑な気持ちになりました。

義姫と政宗のプレゼントと書状のやりとりは、このあとも続きます。

それが途切れたのは文禄3年(1594)冬のことでした。

理由ははっきりとはしませんが、政宗留守中の岩出山城において、義姫は伊達家臣との間で何らかのトラブルがあり、それに腹を立てて実家に戻ってしまったようです。

気に入らなければ実家にさっと戻る義姫は、なかなか自己主張するタイプなのではないでしょうか。

 

最上家存亡の危機! そのとき義姫が動いた

岩出山から産まれ育った山形に戻った義姫は、兄・義光の配慮によって悪戸、南館の館で静かに暮らすこととなりました。

その間、息子の政宗と兄である義光は、京都で豊臣政権が衰退する中を生き抜いていました。

この二人とも文禄4年(1595年)の豊臣秀次切腹事件に連座し、義姫にとって姪にあたる駒姫は幼い命を散らしました。

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それからさらに5年後の慶長5年(1600年)秋、義姫はまたしても合戦に直面することとなります。

今度は大崎合戦とは異なった意味で、最上と伊達を結びつける役目こととなったのです。

大崎合戦とはちがってこの北の関ヶ原こと長谷堂合戦は、単純化すると図式はこうです。

西軍:上杉景勝
vs
東軍:伊達政宗&最上義光

結果的に西軍の上杉勢が最上領に侵攻したのですが、当初は逆でした。

上杉討伐ということで、徳川家康率いる東軍が会津の上杉を攻めるはずだったのです。

義光は領土をめぐる遺恨もある上杉景勝を叩けるということで張り切っていたはずですが、石田三成の挙兵を受けて家康はUターンしてしまうわけです。

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こうなると景勝はどうすべきか?

家康と戦うのならば、背後にいる伊達と最上をまず片付けねばならない。

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かくして最上領に攻め入るわけです。

人生最大のチャンスが一転、最悪の危機に……。義光に選択の余地はほぼなく、結果的に上杉と戦うこととなるわけです。

一方、政宗はどうだったのでしょうか。

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