特に豊臣秀吉が天下人になってからは「妻と子供をワシの手元に差し出さんかい!」という人質の方針が固められ、戦国大名の子供たちは父親とロクに顔も合わせず育っていきました。
これでは親子の愛情もすれ違いになりがちで、本日はそんな戦国~江戸期のホームドラマなお話です。
明暦四年(1658年)6月8日、宇和島藩主の伊達秀宗が亡くなりました。
名字からお察しの通り、あの伊達政宗の息子(長庶子)です。
どこの家でも同じ話なのですが【長男かつ側室生まれ=長庶子】というのは立場が非常に難しいもの。
ヘタに野心を持ったり家臣に担がれれば成敗されかねないし、かといって沈黙を突き通すには自身のプライドや周囲の状況が許してくれません。
しかも伊達秀宗の場合、生まれたのが天正十九年(1591年)という秀吉の死&関ヶ原ちょい前のことなので並々ならぬ苦労もしています。
早速その生涯を見てまいりましょう。
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秀吉のむちゃぶり「4歳の息子に伊達家を譲れ」
伊達秀宗の父・伊達政宗には、長いこと子供が生まれませんでした。
正室の愛姫(めごひめ)との婚姻は早かったものの、戦やらなんやらで留守が多かったからだと思われます。
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そこに側室とはいえ男の子が生まれたのですから、喜びようはハンパではありませんでした。
家臣達からも「御曹司様」と呼ばれ、後継者間違いナシと見られていたのです。
しかし、当時は豊臣秀吉が耄碌(もうろく)し始めた頃。
真実は未だ不明ですが、豊臣秀次切腹事件(1595年)など軽挙妄動が目立ってきたあたりです(朝鮮出兵が1592年から)。
政宗は「秀次とそこそこ付き合いあったから」というとばっちりで「隠居して秀宗(※当時4歳)に家督を譲れ!」なんてムチャ振りをされていました。
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伊達家は鎌倉時代以来の名家。
それを幼児に継がせるのはどうよ?ということで、徳川家康が間に入って何とかしてくれたのですが、このあたりから秀宗の人生にいろいろケチがついてまわります。
まずは「秀頼と歳の近い小姓が欲しいから、秀宗を上方へよこせ」というもっともらしい理由で人質になってしまいます。
このときわずか5歳で元服し、”秀”の字を秀吉からもらいました。手垢付きすぎにも程があんだろ。
秀吉が死んだら死んだで【関ヶ原の戦い】でも大坂方の人質にされ、次は江戸で人質になり……と、秀宗は幼少期のほとんどを人質としてあっちこっちで不快な思いをしながら耐えて暮らします。
他の大名も似たようなものですが、この後の経緯を考えると秀宗の場合はことさら哀れに思えてきます。
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本妻に弟が生まれちゃって…
ここにきて正妻の愛姫に男の子(伊達忠宗)が生まれたのです。
秀宗からすれば腹違いの弟であり、世間的には正式な後継者ということになります。
秀宗も井伊直政の娘を正室にもらっているので、いきなり冷遇されたわけではないんですが、この腹違いの弟が元服の際、秀忠の”忠”の字をもらって忠宗と名乗ったことで、秀宗が家督を継ぐ可能性は消えてしまいました。
”秀”に秀吉の影を感じ、恨みに思った可能性は高そうです。
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政宗も、さすがに長男の不満に全く気付かないようなバカ親ではありません。
「アイツにもいろいろ苦労させたし、何とかしてやらんとなー」ということで、秀宗の顔が立つ方法を考えはじめます。
とはいえ、すぐにいい手は浮かばず、ビミョーな空気の中、親子揃って大坂冬の陣に参戦しました。
これは余談ながら、秀宗は、政宗の子供の中では唯一実戦経験があるということになります。
他に落胤で大坂夏の陣に参加した人もいるんですが、まあそれは置いといて先へ行きましょう。
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もらった新領地 それが愛媛県の宇和島市
伊達軍は冬の陣では特筆すべき功績を挙げておりません。
お歳暮代わりにいくらか領地をもらえることになりました。
ここでピンと来た政宗!
「いただいた土地のうち、伊予宇和島(現・愛媛県宇和島市)を息子にやりたいんですが」
徳川秀忠にそう申し出ると許可が下り、さらには「秀宗は真面目だからオマケしてやろう」ということで、分家扱いではなく大名扱いにしてくれます。
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親心か、世間体からか。
政宗も「ならば頼れる家臣をつけてやらんとな」と張り切り、選りすぐった人物とさらにお世話係や兵卒合わせて1,200人をつけ、長男を送り出してやりました。
しかし、この家臣団が火種になってお家騒動が起きてしまうのです。
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