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【人取橋の戦い】
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鬼庭散り、成実が奮闘
前述の通り連合軍35,000に対し、伊達軍は7,800しかおりません。
戦は当然、一方的なものとなりました。
もちろん伊達家が劣勢です。
よくぞ引かなかった――つか、頑張りすぎでしょ――と半ば感心、半ば呆れてしまいそうですが、一時は伊達家の本陣まで敵が侵入し、政宗自身が銃創5ヶ所、矢傷1ヶ所を受けるほどの大激戦になります。
事ここに至って伊達家では、戦での勝利より政宗一人を生かすことを選びました。
さほどに深刻な戦況に追い込まれたのですね。
そして、輝宗の代からの重臣・鬼庭左月が老体ながらも殿(しんがり)を務め、最期は、自ら敵中に入って壮絶な討死。
政宗の従弟・伊達成実(しげざね)は少し離れたところにいて挟み撃ちに遭いながら、後退せずその場で敵を迎撃し、政宗が逃げる時間を作りました。
冬も近い時期の東北で戦をすること自体が無謀な上、兵力差やその他諸々のマイナス条件から考えると、伊達家のこの戦いぶりはアッパレなものです。
もしも名のある家臣が一人でも政宗を見捨てていたら、総崩れになって滅亡していても不思議ではありません。
そう考えると、対外関係はともかく、政宗は日頃、配下の者たちや、兵となる領民に気配りができていたか、善政を敷いていたことも窺えますね。
実に胸アツな展開です。
圧倒的優勢だった連合軍から退いていった
戦いは、連合軍が猛攻をかけたまま日没を迎え、やがて終息していきます。
何やってんの?
なんで伊達を追い込まないの?
そう思われるかもしれませんが、連合軍の主力・佐竹氏の本拠地が内紛危機にあるとの一報がもたらされ、早々に戦線離脱→帰国したのです。
他の勢力も後日引き揚げていく一方で、警戒を解かなかった伊達家は岩角城へ滞在。
再びやってくるであろう連合軍の攻撃を待ちながら、小浜城(現岩代町)へ戻りました。
むろん連合軍は戻ってきませんでした。
戦闘そのものは伊達家の惨敗に近い状態で終わった、この人取橋の戦い。
春から戦を再開したものの結局城を攻め取ることはできず、和睦を結ぶことで一連の騒動は治まりました。
しかし、大切な重臣を失い、自身も命の危機にさらされた政宗には、強く思うところがあったのでしょう。
人取橋の戦いで着用していた具足(鉄砲や矢の傷付き)を大切に扱い、死後、墓に副葬させています。
政宗といえども、さすがに反省……。
って、三方ヶ原の戦いで武田信玄にボコられた徳川家康が、『しかみ像』を描かせたエピソードに似ていますね。
もっともこの絵は、戦いの後に家康が描かせたものではなかったことが判明しておりますが……。
家康のしかみ像は三方ヶ原と無関係?東大教授・本郷和人の歴史ニュース読み
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いずれにせよ無謀な合戦に挑んだ自身を諌めたい政宗の気持ちが伝わってきますよね。
まぁ、懲りない男というのが魅力でもあるんですが……よろしければ政宗の生涯を描いた記事も御覧ください。
このとき奮闘した伊達成実の人物伝もございます。
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長月 七紀・記
【参考】
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
佐藤憲一『伊達政宗謎解き散歩(新人物文庫)』(→amazon)
『日本歴史地名大系』