細川忠興

細川忠興/wikipediaより引用

細川家

明智の妻を偏愛した細川忠興~名門武家 狂気の御曹司83年の生涯とは

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茶の道は父をしのぐとも

例えば天正15年(1587年)に開催された北野大茶会

聚楽第の完成や天下統一の順調な経過を示す目的で開催され、その規模から現代まで語り草になっているイベントに参加しております。

この際、忠興は松向庵という茶室を設けて秀吉を歓待。この茶室を模したと思われる一室が大徳寺高桐院に現存しており、彼の「松向院殿」という戒名もこれに由来しています。

残念ながら北野大茶会はさほど盛り上がらずに終わってしまいましたが、忠興は茶の世界で際立った才能を発揮しました。

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こと茶の分野に限っていえば幽斎をもしのぐ能力の持ち主であったとも称されます。数々の茶会で優れた茶人たちと交流を重ね、あの千利休を師として仰ぐほどでした。

しかし、天正19年(1591年)頃になると、その利休と秀吉の関係に変化が生じるようになります。

秀吉の不興を買った利休はしだいに追い込まれていき、忠興は主君と師の仲介役として奔走することを余儀なくされるのです。

忠興の働きは利休にとって好ましいものであったようで、かねてから所望していた茶器を与えられたりしています。

こうした忠興の働きにも関わらず、事態はいっそう悪くなるばかり。

同年、利休は突然蟄居を命じられました。

これは彼の死が近いことを意味していました。

秀吉の目を考えれば、利休とは距離を置くことが最善の策でもあります。

しかし忠興は、それでも利休との関係性を大切にし、蟄居の際にも見送りに立ち会うほど。

その後、決死の助命嘆願も叶わず、切腹を命じられた師の精神を受け継ぐ者として、忠興は利休七哲の一角として数えられることになりました。

 

妻ガラシャとの「刺激的」すぎる結婚生活

利休との関係においては非常に侠気を感じさせる忠興。

しかし、その妻ガラシャとの結婚生活となると、なかなかエキセントリックな話が伝えられています。

二人の関係は、我々が思う「夫を立てる妻」というような戦国時代の夫婦像とは大きく異なるものでした。

確かに二男四女をもうけるなど、戦国時代に最も重要視された子づくりという点では順調です。

それでも夫婦仲が円満だったとは思えないのは、忠興とガラシャが超個性的な人物であり、その個性がぶつかり合ってしまったからではないでしょうか。

現代の我々からすると、にわかには信じがたい数々の奇想天外な逸話が残されています。

忠興は家臣から「天下で一番気が短い」と称されるほど短気な人物として知られており、下僕や奉公人をしばしば手打ちにするということがありました。

その際、あるときは血塗られた手をガラシャの小袖で拭き、またあるときは落とした首をガラシャに投げつけるという奇行に走ったと伝わっています。

この時点でも既に異常さが際立っているのですが、奇行に対するガラシャの行動もまた衝撃的なものです。

ガラシャは小袖で血を拭われた際にはわざとその小袖を着続け、最終的に忠興が謝罪するまで小袖を脱がなかったとされます。

さらに、首を投げつけられても平然として動じることがなかったとも伝わります。

個性がぶつかりあっていた細川夫婦ですが、忠興はガラシャのことを深く愛していたと考えられます。

実際、ガラシャを大坂に残して地方へと向かう際には「秀吉になびくなよ」という旨の書状を送っており、またガラシャが自害した際に彼女を見捨てた家臣に対しては怒り狂ったという逸話が残されているのです。

ところが、忠興の「偏愛」も当のガラシャには響いていなかったようで……。

彼女はカトリックに帰依した後、何度も宣教師に離婚の相談をもちかけていたことがキリシタン文書から確認できます。

個人的には「意外と二人の相性は悪くないのかも……」と思わないでもないですが、本人からホンネが聞けないのは残念ですね。

閑話休題。
話を秀吉の死後へと進めましょう。

 

関ヶ原も乗り切って家名を後世に残した

慶長8年(1598年)8月、天下人の豊臣秀吉が死去。

にわかに徳川家康石田三成の権力争いが表面化していきます。

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忠興は早くから家康支持を明確にしており、石田三成襲撃事件にも関与しました。当然ながら家康が大将を務める東軍として【関ヶ原の戦い】を迎えます。

しかし、戦そのものではなく戦に関連する諸騒動によって、忠興の妻や父に大きな危機が訪れました。

まず、妻のガラシャは西軍の実質大将である三成の差し金で奇襲に遭ってしまいます。三成は、大名の妻を人質として確保することで、西軍に与する武将を増やそうとしたのです。

そうした事態も想定してのことか。

忠興は事前に「人質になるくらいなら自害せよ」という命令をガラシャに対し伝えていました。

ガラシャはその言いつけを守り、三成方を相手にしばし抗戦すると、自害して果てるのです。

これは忠興が短気で残虐だったことを裏付けるのではなく、戦国時代の慣例を重視した常識的な命令であったことを付記しておきます。

さらに、父の幽斎(細川藤孝)も隠居地の田辺城で西軍の襲撃に遭います。

圧倒的兵力差を前にしても、幽斎はあくまで徹底抗戦の構えを崩しませんでしたが、彼の文化的才覚を失うことを恐れた当時の後陽成天皇が勅命を出し、幽斎はやむなく開城しました。

このように関ヶ原に関連して家族に危機が訪れた忠興。

彼自身は本戦で大功を挙げ、戦後に豊前39万石もの恩賞を得ています。

この地への転封は名誉であると同時に抵抗もあったようで、息子の細川忠隆が「思いのほか遠国」という感想をこぼしています。

その後は豊前の整備に奔走し、小倉藩の政治体制を整えました。

忠興は元和6年(1620年)に家督を譲り隠居しますが、晩年になっても絶大な影響力を有していたようで、長男・忠隆を廃嫡にすると、次男ではなく三男の細川忠利に家督を継承。

ところが忠利との関係も良好とは言えず、家中でお家騒動が頻発するなど、晩年は穏やかではありませんでした。

隠居後の寛永9年(1632年)には忠利が肥後国へと加増転封されたことで、忠興も9万5千石もの隠居領を手にします。

三斎宗立をという名を名乗った忠興は隠居後も実権を握っていたとみられ、隠居領を立藩させる計画を練っていたとか。

かなりアクティブなご隠居様ですが、そんな忠興も老いには勝てず、正保2年(1645年)に生涯を終えるのでした。

享年83。

家名をきちんと残し、戦国大名としては立派な勝ち組と言えるでしょう。

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文:とーじん

【参考文献】
米原正義編『細川幽斎・忠興のすべて』(→amazon
春名徹『細川三代―幽斎・三斎・忠利』(→amazon
安延苑『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』(→amazon
田端泰子『細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ―』(→amazon

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