北条氏康

左から父の北条氏綱・北条氏康・息子の北条氏政/wikipediaより引用

北条家

北条氏康・謙信や信玄と渡りあった名将~関東制覇を進めた57年の生涯

【越後の龍】が上杉謙信ならば、【甲斐の虎】が武田信玄

では【相模の獅子】は誰ですか?

と問われて即答できるのは、よほどの戦国ファンかゲーム好き、あるいは北条マニアでしょう。

そうです。

この相模の獅子とは、北条氏康のこと。

謙信や信玄、あるいは今川義元といった戦国スタープレイヤーたちと真っ向から戦い、北条氏の勢力を関東一円へと拡大させた文字通りの獅子であります。

その出自も華麗なもので、祖父の北条早雲(伊勢宗瑞)、父の北条氏綱から武名を引き継いでおり、氏康は如何にしてさらなる高みへと上り詰めたのか。

元亀2年(1571年)10月3日に亡くなるまでの、生涯57年を振り返ってみましょう。

 


早雲の血を継ぐ戦国エリート 北条氏康

北条氏康は永正12年(1515年)、後北条氏二代目・北条氏綱の息子として生まれました。

母は氏綱の正室である養珠院殿。

それよりも著名なのは祖父の北条早雲(伊勢宗瑞)でしょうか。

※以下は北条早雲の事績まとめ記事となります

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氏綱の嫡男だった氏康は、早くから後継者として育てられました。

幼名は伊豆千代丸です。

当初の名字は、かつて父と祖父が名乗っていた「伊勢」という名字であったことも確認できます。

大永3年(1523年)までに氏綱が「北条姓」に改めた経緯については、以下、北条氏綱の記事に詳しくありますが、息子の氏康はこの時点で北条姓を名乗らず、「伊勢伊豆千代丸」として文書に名が残されました。

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氏康が姓名を改めたのは元服した頃だったと考えられています。

歴代の北条当主同様に「新九郎」という仮名と、「氏康」という実名が与えられたのです。

ここから、いよいよ北条氏康の名が、歴史の表舞台へと姿を見せるようになりました。

 


初陣から厳しい戦いに駆り出され

彼の初陣は享禄3年(1530年)。

扇谷上杉朝興が重臣を武蔵国府中に派遣してきた際、これを迎え撃つ戦に出陣したものであるとされます。

良質な史料で確認ができず、江戸時代の軍記物が伝える話ですが、当時の社会や軍事情勢を考えれば氏康の初陣タイミングも扇谷上杉氏の南下も妥当であり、おおむね事実と考えてもよさそうです。

仮に氏康の初陣が事実であるとすれば、彼は16歳にして大将という役割を任され、加えて扇谷上杉氏を首尾よく撃退するという戦果を収めたことになります。

初陣は、基本的に「縁起を担ぐ」狙いがあります。

ゆえに次期当主レベルの若武者であれば、勝利濃厚な戦場に送り出されることが多かったものです。

氏康の初戦はとてもラクな相手とは言えず、早くから能力を期待されていたフシがあります。

また、天文4年(1535年)ごろ、今川氏親の娘である瑞渓院と結婚し、姻戚関係の構築で【北条―今川】ラインのさらなる強化を目指しました。

ところが、です。

この後に今川家では家督継承をめぐる内乱が勃発。

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勝利者となった今川義元の方針によって天文6年(1537年)以降は敵同士となってしまいます。

それでも氏康は瑞渓院を離縁せず、そんな彼の「期待」に応えてか、後継者の北条氏政だけでなく多くの子供たちを生みました。

戦国期における「理想の妻」とは「血をつなぐために多くの子(特に男子)をなせる人物」であり、この価値観から言えば大名の正室としてこれ以上ない女性であったといえるでしょう。

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「氏綱が死んだ!」周囲敵だらけの家督継承

天文6年(1537年)ごろから氏綱とともに政務への関与もみられるようになった氏康。

徐々に後継者として領国支配の一翼を担うようになりました。

その4年後の天文10年(1541年)に氏綱が死去すると、正式に家督を継承し、いよいよ北条氏三代目としての活動が幕を開けます。

彼が当主の座についた天文10年頃は、氏綱の活躍によって北条氏が名実ともに関東最大の戦国大名へと成長していく一方、急速な発展の代償として領域周辺には向かうところ敵ばかり、という情勢にありました。

特に懸念だったのが扇谷上杉氏・山内上杉氏との対立。

これまで父・氏綱によって辛酸を舐めさせられてきたは彼等は、

「氏綱が死んだ!このチャンスを逃すわけにはいかない!」

とばかりに、早速、北条家の拠点へ攻撃を開始します。

氏綱死去の三か月後、関東の重要拠点である河越城と江戸地域へ進軍されましたが、これをなんとか撃退。

その後も両上杉氏との戦いが続いていきます。

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