こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【北条氏康】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
古河公方までもが攻め込んできた
むろん北条氏康の敵は、両上杉氏だけではありません。
天文14年(1545年)には成田氏の本拠である忍城を奪取するなど、首尾よく軍事行動を進めていましたが、やがて対立していた今川氏から河東地域への侵攻を受けてしまいます。
さらに今川氏と同盟関係にあった武田氏も同地域へ攻め込み、危機的状況を迎えてしまうのです。
-
武田信玄は本当に戦国最強の大名と言えるのか 戦歴や人物像に迫る53年の生涯
続きを見る
氏康はやむなく最前線の吉原城を放棄。
伊豆の国境付近である長窪城までの後退を余儀なくされました。
そこへ再び襲いかかってきたのが例の両上杉氏。
彼らは大軍を率いて河越城(埼玉県川越市)を包囲し圧力を加えます。
しかも、こうした上杉氏の動きに反応したのが、関東屈指の名門・古河公方足利氏の当主・足利晴氏でした。
北条氏康は、河東地域と河越地域の二面で大軍を迎え撃つという非常に不利な状況へと追い込まれてしまうのです。しかし……。
まだ若い当主・氏康は慌てませんでした。
「同時に作戦を展開することは不可能である」
そう速やかに判断すると、今度は和睦や停戦に向けた動きを模索します。
まずは、現状、対立関係にはありながら、実は長年協力関係を構築していた今川氏との和睦を受け入れました。
和睦というよりは、敗北に近い案ですね。
「北条氏は駿河から明確に撤退する」という取り決めでした。
次に、これまで庇護してきた足利晴氏に目を向けます。
快挙! 河越夜戦
晴氏とは義兄弟でもある氏康。「もう一度北条に協力してほしい」と翻意を促すのです。
しかし、これを挽回のチャンスと判断した晴氏は河越城の包囲を継続し、依然として大軍に包囲され続けました。
河越城を守っていたのは「地黄八幡」と称される猛将・北条綱成(つなしげ)たちです。
彼らは、数万の大軍に囲まれる圧倒的不利な状況にもかかわらず粘り強く戦い抜いており、氏康としては一刻も早く後詰(救援)に向かいたかったところでしょう。
懸念していたのは背後の今川です。
前述の通り、一度は敵対しながらも、再び同盟関係を結ぶことに成功させると、氏康は早速、河越城内の綱成らと連携をとります。
そして8万とも言われる大軍へ奇襲を仕掛けるのでした。
世に名高い【河越夜戦】です。
一説に【1万vs8万】という凄まじい劣勢を氏康は跳ね返し、北条氏はここで圧倒的な勝利を得ます。
戦の経過や展開についてはハッキリしない点も多く、詳しい解説は以下に譲りますが、この戦によって氏康が得た戦果は非常に大きく。
-
一万vs八万で劇的逆転!河越城の戦い(河越夜戦)の北条があまりに鮮やかだ
続きを見る
例えば
◆重要拠点である河越地域の維持
◆上杉朝定の戦死による扇谷上杉家の滅亡
◆山内上杉氏に対する軍事的優位性の確立
などによって、北条氏の優位と関東上杉氏の衰退を明確にしたのです。
いわゆる「選択と集中」ですね。
確かに、河東地域の放棄は口惜しいものがあったでしょうが、関東平野の重要拠点を押さえた方が広域エリアを安定させられる。
河越の支配を成し遂げた氏康の手腕には、目を見張るものがありました。
関東上杉氏を殲滅
河越夜戦の結果、関東中央部での拠点を強化した氏康は、扇谷上杉氏の残存勢力と山内上杉氏への攻勢を強めます。
以下の地図をご覧ください。

北条氏綱時代の関東諸勢力/photo by 野島崎沖 wikipediaより引用
この地図は、父・北条氏綱時代の諸勢力図で、まだ河越城や岩付城(埼玉県さいたま市)などは両上杉氏の勢力下にありました。
河越城を中心に支配強化を果たした氏康は、この一帯の支配強化と、地図には無いさらに北方面への侵攻を模索します。
しかし、その矢先のことでした。
氏康が里見氏と抗争を繰り広げている隙を突かれ、旧扇谷家臣の太田資正が武蔵松山城(埼玉県比企郡)と岩付城を奪取。
資正は岩付城へ入り、武蔵松山城には上田朝直という人物が据えられます。
一進一退とはこのこと。
正念場であるこの局面で、氏康は上田朝直に対し調略をしかけ、あっさり武蔵松山城を奪い返します。
一方、勢いで城をせしめた太田資正は万事休す。
天文17年(1548年)のはじめに岩付城も再び北条氏の手に渡り、氏康は、旧扇谷上杉領を完全に掌握するのでした。
※続きは【次のページへ】をclick!