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【北条氏康】
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上野の奥へ進むとその先は……
扇谷上杉氏の殲滅を果たした氏康は、続いてもう一つの山内上杉氏攻略を本格化させます。
圧倒的な軍勢を背景として、山内上杉方の勢力であった小幡氏や藤田氏を離反させ、自身の配下に収めると、天文19年(1550年)には山内上杉氏のお膝元である西上野(群馬県)へ進軍。
秋の収穫を略奪するなどして、国力を徹底的に疲弊させます。
そしてそのまま、彼らの本拠である平井城(群馬県藤岡市)へ攻め込むほど奥地までの侵入を果たしていました。
凄まじいほどの進軍速度です。
氏康は、ここでいったん兵力を整え、いよいよ天文21年(1551年)、本格的な制圧作戦をスタートさせます。
まずは山内上杉氏が武蔵国に構えていた唯一の拠点である御獄城(埼玉県児玉郡)を攻め、見事に同城を落としました。
城には上杉憲政の嫡男である、まだ幼い龍若丸がおりましたが、非情にも氏康は処刑します。
この果断な処置は、北条氏にとっては正解でした。
というのも御獄城落城の一報は、周囲の武将たちに多大な精神的ショックを与え、上野地域や憲政の側近から次々と離反者が出たのです。
室町以来の由緒正しい名門を自負していた憲政にとってこれは屈辱以外の何物でもなく、しかし、さりとてこのまま抵抗を続ければ自身の破滅は明らか。
憲政は、味方が領有していた新田金山城(群馬県太田市)や下野足利城(栃木県足利市)といった拠点へ逃げ込み、再起を図ろうとしましたが、これらの城も氏康に従う勢力から攻撃を受けており、入城することすらかないません
もはや万事休す――。
重臣・長尾憲景が本拠とする白井城(群馬県渋川市)を経由して越後まで逃れ、関東上杉氏の没落はついに公のものとなりました。
関東上杉氏の打倒は、氏康だけでなく北条早雲(伊勢宗瑞)・北条氏綱という北条三代にとっての悲願。
かつて「他国の逆徒」として彼等に嘲笑された北条氏は、逆に上杉勢力を関東から駆逐したのです。
以後、憲政をかくまった長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻や、山内上杉方の残存勢力による抵抗を退けつつ、弘治2年(1556年)までには、かつての山内上杉旧臣らを北条に従属させることで動乱を収束させていきました。
さらに、永禄2年(1559年)までには、上野の国衆をすべて勢力下に収め、ここに上野国の支配を確立します。
北関東への覇権をも唱えるまでに成長したのです。
古河公方勢力へプレッシャー! 外甥を後継者とさせる
関東上杉氏の没落は、地域武士たちにとってショッキングな出来事でした。
これまで上杉を中心に構成されていた政治秩序は乱れ、その結果、古河公方の立場で権威を有していた足利晴氏は、氏康から強烈なプレッシャーを受け始めます。
もともと河越夜戦で氏康に敵対してしまって以降、晴氏との良好な義兄弟関係は崩れつつありました。
氏康も、さすがに妹の夫・晴氏を攻め滅ぼしたりはしませんでしたが、苦しい局面で攻撃してきた義弟に対し「よくもやってくれたな……」という態度になります。
そして冷え込みつつあった両者の関係は天文21年(1552年)、ついに限界を迎えます。
氏康は、すでに晴氏の嫡男として古河公方足利家を継承する予定であった足利藤氏を廃嫡に追い込むと、自身の妹と晴氏の間に生まれた梅千代王丸(後の足利義氏)を新たな後継者として定めたのです。
もちろん一連の「人事異動」が北条氏の意向によって行われたものであることは言うまでもなく、梅千代王丸が古河公方となることで、氏康は外甥の威光を背景に関東の諸勢力へ対峙しようと考えたのでしょう。
まるで平安時代に一世を風靡した藤原氏の摂関政治。
外戚の位置から氏康はさらなる権力を手にしようとしたのです。
ところが、です。
氏康の横暴によって廃嫡を余儀なくされ、人生を一変させられた「元嫡男」の足利藤氏からしてみれば、足利義氏の後継んだお看過できるものではありません。
彼らは天文23年(1554年)に氏康の指示を無視し、かねてからの本拠地である古河城へ勝手に入城して公然と反旗を翻しました。
小山氏や相馬氏、さらにはいまだに抵抗を続けていた旧山内上杉氏勢力からの支援を受け、最後の抗戦を試みたのです。
対する氏康は、自身の勢力だけでなく、公方家に仕えていた義氏らの旧家臣勢を味方として古河城を攻めました。
両者の力差は歴然であり、氏康はかつての協力者を猛然と打倒。
結果として足利晴氏は相模国波多野へ幽閉されてしまいます。
氏康にしてみれば「晴氏を含め反対勢力を一掃したかったが、こちらからは手を出しにくかった。それが謀反によって大義名分が転がり込んできた♪」と思っていてもおかしくないほど絶妙な権力一本化の好機でした。
以後、氏康と古河公方足利義氏による新たな政治体制が構築されていくことになったのです。
甲相駿三国同盟の締結と、氏康の形式的な隠居
関東地方を制圧していく傍らで、氏康は外交面における同盟の締結にも勤しみました。
彼が同盟相手として構想したのは、北条氏と同様に強大な勢力を有する武田氏と今川氏。
彼らと北条氏は河東地域の戦乱を経て、その後、小康状態を保っており「敵でも味方でもない」という中立の関係になっておりました。
そして天文19年(1550年)、今川氏と武田氏の間で同盟の機運が高まったことを知った氏康は、北条氏としてもそこへ参入して三国同盟を形成したいと考えるようになります。
具体的な交渉は天文20年(1551年)から始まり、3年後の天文23年(1554年)に話がまとまると、三家がそれぞれ姻戚関係を結んで【甲相駿三国同盟】が成立しました。
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北条氏の視点から三国同盟を評価してみると、武田・今川の勢力を背景に関東攻略へ専心できるという利点に加え、上杉憲政をかくまった上杉謙信ら越後上杉氏との全面対決に備えた対応策という側面も有していたことでしょう。
実際、天文21年(1552年)には景虎によって北条領内が攻撃されており、彼らとの抗争が眼前に迫っているという状況下にあったのです。
しかし、同盟を締結させ、いよいよ上杉氏との対決を控えた永禄2年(1559年)、氏康は突如として家督を嫡男の北条氏政へ譲り、自身の隠居を表明したのです。
もっとも、この隠居は非常に不思議なものでした。なぜなら氏康は体調を崩していたわけでも、領地支配の気力を失っていたわけでもなかったからです。
では、なぜ氏康は形式的な隠居を余儀なくされたのか。
その答えとして考えられている要因に、ここ数年、北条領内を襲っていた飢饉と疫病の流行という危機が挙げられます。
氏康はこうした現象への対処に手を焼いてしまい、形式上だけでも「代替わり」を行うことで責任をとった――そして、新当主となった息子の北条氏政に徳政令を出させることで、領民に対する救済を表明したという説があります。
以上の経緯からもわかるように、氏康としてはあくまで形式的な代替わりを実施したに過ぎず、彼はこの後も「御本城様」と称されて実質的な北条氏の当主であり続けました。
したがって、永禄3年(1560年)から北条氏を悩ませた上杉謙信の関東侵攻については、基本的に氏康が中心となって対処していたと考えてよいでしょう。
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