こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【名胡桃城事件】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
名胡桃城は誰のもの?
沼田領とは、現在の沼田市を中心とした群馬県北部の一帯を指します。
関東から見れば、越後や信濃へ通ずる分岐点=要衝となっていて、北条にとっては絶対に譲ることのできない土地でした。
一方、同地方に勢力を築いていた真田にとっても超重要な土地です。
この辺りは「沼田城(群馬県沼田市)」を中心に細かい城が乱立しており、利根川を挟んで西側には真田の「名胡桃城(群馬県利根郡みなかみ町)」がありました。
まずは大きな地図で名胡桃城の位置を確認しますと。
確かに越後(新潟)と上野(群馬)を繋ぐ位置にあることがわかりますね。
それだけでなく西へ行けば信濃(長野)ですから、防衛上の話だけでなく交易を考えても魅力的な土地ですよね。
次に、拡大版の地図で、沼田城や名胡桃城の位置を確認しておきましょう。
黄色の拠点が北条方で、北から
・小川城
・明徳寺城
・沼田城
となっております。
一方、画面中央左の赤い拠点が、真田の
・名胡桃城
であります。
まるで名胡桃城を取り囲むようにして北条方の城がありますね。
実は北条方にとって、名胡桃城周辺も北条の領地という認識でした。
それゆえ、謀略でもって北条家臣・猪俣憲直がこれを強奪します。
大名同士は勝手に合戦をしたらダメ
真田昌幸は、すかさず城を奪い返す――のではなく、秀吉へ訴え出ました。
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
この頃、秀吉によって「大名同士は勝手に合戦をしたらダメ」という趣旨の【惣無事令】が出されており、北条の名胡桃城強奪は命令に背いたことになります。
しかし、北条も簡単には引けません。
沼田領は1/3が真田で、2/3が北条と決められており、境界線にあった名胡桃城は、北条のものという理解だったからです。
結果、真田の訴えが秀吉に通り、小田原征伐へと繋がったのはよく知られた通り。
小田原征伐で秀吉相手に退かず!北条家の小田原城はどんだけ強いのか
続きを見る
大軍に攻められて戦国大名・北条氏が滅亡するぐらいだったら、そんな城の一つぐらい譲ればいいのに……と後世の我々は思ってしまうかもしれませんが、境界線の取り決めが曖昧だったようで、北条氏としても引けなかったのでしょう。
なんせ北の上杉も西の真田も豊臣方ですから、関東を拠点にする北条としては絶対に譲れない土地です。
もちろん【豊臣vs北条】の全面戦争を回避するため、事前に様々な交渉が行われておりました。
そしてその話し合いがまとまる前に、今回の名胡桃城強奪事件が起こってしまったのです。
北条はなぜ秀吉に滅ぼされたのか? 真田や徳川も絡んだ不運の連鎖に追い込まれ
続きを見る
もしも小田原で籠城するなら、他勢力からの後詰め(救援)が必要になる=つまり、伊達家や徳川家あたりが味方になることを本気で期待していたかどうかは不明です。
いずれにせよ関東で五代続いた戦国大名・北条氏はこの後、滅びてしまいます。
早雲が伊豆に礎を築き、氏綱が小田原を拠点に関東へ進出。
そして関東平野に広大な領域を有したのが北条氏康ですが、その人物伝を以下に公開しましたので、よろしければ併せてご覧ください。
あわせて読みたい関連記事
小田原征伐で秀吉相手に退かず!北条家の小田原城はどんだけ強いのか
続きを見る
北条早雲はどうやって戦乱の関東に拠点を築いた?正体は幕府のエリート伊勢宗瑞
続きを見る
北条氏綱~早雲の跡を継いだ名将はどうやって関東へ躍進した?55年の生涯まとめ
続きを見る
北条氏康は信玄や謙信と渡りあった名将也~関東を制した相模の獅子 57年の生涯
続きを見る
北条氏政が暗愚だから小田原は陥落した? 信玄や謙信と戦った名将の生涯53年
続きを見る
秀吉に滅ぼされた関東の雄・北条氏直~生涯30年どんな功績がある?
続きを見る
真田昌幸は誰になぜ「表裏比興」と呼ばれたのか 65年の生涯で何を成し遂げた?
続きを見る
【参考】
国史大辞典
日本歴史地名大系
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)